CubとSRと

ただの日記

こちらの見方からの報道は

2022年05月26日 | 心の持ち様
 再掲します。

「主権回復の日」のことについて (天皇親政とは)
                     2020年01月19日 | 重箱の隅

2013.03/15 (Fri)

 「狼魔人日記」中、「『屈辱の日』か『主権回復の日』か」、と題されたエントリーです。初めに氏の追想、次に琉球新報の記事、それから、本題です。

  ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

■「日本国への帰国を証明する」・・・パスポートに押されたゴムスタンプ

  半世紀以上前の話。 
 筆者がまだ10代の紅顔の美少年?のころの出来事である。
 進学のため米軍占領下の沖縄を後にし祖国日本の出入国・通関に足を踏み入れたときのことを昨日のことのように思い出す。

 携行していた「パスポート(日本旅行証明書)」を通関に差し出したとき、審査官は学生服姿の筆者を見て微笑みながら声をかけてくれた。 
 「進学のため?」
 「はい、そうです」
 審査官は高校の制服制帽姿の少年に終始優しく対応した。

 審査官はパスポートにゴムスタンプを押し、それに署名しながらこういった。
 「しっかり勉強しなさいよ」
 「はい」
 口下手の少年は審査官の優しい対応と励ましの声に、心の中で「ありがとう」とつぶやいたが、それを口に出して言うことができなかった。

 後で、パスポートに押されたスタンプを見て、感動がこみ上げてきた。
 スタンプには「日本国への帰国を証明する」と記され、審査官の署名がされていた。
 「日本国への入国」ではなく「帰国」という文字に感動したのだ。

 それまでの認識では米国の統治下にあるので、沖縄人は日本国民ではないのではないかという疑念を持っていたが、「沖縄の潜在主権は日本にある」とも聞かされていた。
 そのせいなのか、沖縄で戦後教育を受けた少年は、小学、中学、高校と文部省教科書で教育を受けていたが、そのことには何の矛盾も感じていなかった。
 少年は、「潜在主権」の意味がよく理解できないまま祖国日本に上陸し、通関手続きで「日本国への帰国を証明する」という審査官の署名つきスタンプを見て初めて「潜在主権」を身を以て実感したのであった。

 だが、その「潜在主権」という文言が、昭和天皇の「天皇親政」で生まれた「天皇メッセージ」の成果であることを、少年はその時知る由もなかった。
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 この4月28日を日本が独立を回復するため沖縄を米国に売り渡した「屈辱の日」などと叫ぶ勢力がいる。
 そして政府が日本が独立を回復したサンフランシスコ講和条約発効の日の4月28日を「主権回復の日」として政府主催の式典を開くと表明して以来、またぞろ沖縄2紙が発狂を始めた。

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 ~琉球新報より~

 4月28日「屈辱の日」に式典 首相「独立認識する日」2013年3月8日

 安倍晋三首相は7日の衆院予算委員会で、1952年にサンフランシスコ講和条約が発効し、沖縄が日本から切り離された日に当たることし4月28日を「主権回復の日」として、政府主催の式典を開く方針を明らかにした。県内では、基地重圧の源流で米軍の圧政が固定化したこの日を「屈辱の日」と呼ぶだけに、反発の声が上がっている。
 1952年の講和条約発効により、日本は占領統治から独立を回復したが、沖縄は米軍統治下に差し出される形となった。
 自民党は、昨年の衆院選公約に「主権回復の日」を掲げており、首相は「実施する方向で検討している」と明言した。近く閣議決定する。
 首相は「主権を失っていた7年間の占領期間があったことを知らない若い人が増えている。日本の独立を認識する節目の日だ」と意義を強調した。

                       (新聞記事ここまで)
 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 米軍統治下の沖縄の法的地位については「米軍の信託統治で施政権を放棄した」など誤解が多い。
 共産党など反日サヨク勢力が「屈辱の日」と声高に政府を追及するのは何時ものパターンで特に気に留めることもないが、県内の保守系論者の中にも米軍統治下の沖縄の法的地位について誤解が散見される。

 例えばこんなように。

 <サンフランシスコ講和条約は、日本は主権を回復しました。しかし、第3条で奄美、沖縄は米国の信託統治領となり、行政、立法、司法権を失ったからです。沖縄にとって、4月28日は主権回復の日ではなく、正反対の主権喪失の日だったのです。>

 沖縄が米国の信託統治だったと言うことは大きな誤解である。
 確かに米国は沖縄侵攻の当初から、沖縄を米軍基地として永久に統治する意図が有り、その遂行のため、沖縄人と本土出身者を分断する占領政策を行ったことがよく知られている。
            (略)
 だが、実際は米国は「沖縄を信託統治にする」と提案はしなかった。
 したがって日本が同意することもなく、沖縄が米国の信託統治に委ねられることもなかった。
 これが歴史の事実である。

 では何故米国は沖縄を永久統治の意図がありながら、その提案をしなかったのか。
 反日サヨク勢力が声高に叫ぶ日本は「沖縄を売り渡して主権回復した」という状況の当時、米国は何故「信託制度」の提案をしなかったのか。
 そこには冒頭に触れた「潜在主権」というキーワードと、これを当時の誰が思いついたかという点が問題になってくる。

 実は主権のない米国占領下の日本で、誰も沖縄のことなど考える余裕のない昭和20年代初期、ただ1人の人物が占領下の沖縄のことを憂慮していた。
 其の人物はただ1人、絶対的権力を持つGHQのマッカーサーと複数回個人的面談をし、沖縄を日本の主権を残したまま「暫定的リース」の形で米軍の使用を認めるという当時の日本の政治家が考えも及ばない「奇策」を伝えた人物だ。
 昭和天皇のことである。
 そして、その「奇策」こそが「天皇メッセージ」として現在伝えられているものである。

 「天皇メッセージ」とはいっても天皇が記したメッセージが残っているわけではない。
 当時宮内庁御用掛をしていた寺崎英成が「天皇独白録」として書き残したものと、当時マッカーサーの政治顧問をしていたウイリアムシーボルトが米国務省に書き送った手紙から類推したものである。
 シーボルトの手紙によると、昭和天皇は、宮内省御用掛である寺崎英成をダグラス・マッカーサー元帥の政治顧問であるウィリアム・シーボルトの下へ派遣し、「米国が沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望する」との同元帥宛のメッセージを伝達されたとしている。

 この手紙はは1979年に発見された米国の公文書で判明したもので、この手紙を以って日本国内の反日反米の左翼勢力は「沖縄を売った」などと強調するが、実に許し難きデマ宣伝である。
                  (以下略)

 ~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 「米国は沖縄侵攻の当初から、沖縄を米軍基地として永久に統治する意図が有り、その遂行のため、沖縄人と本土出身者を分断する占領政策を行った」
 にも拘らず、それをしなかった、ということと、天皇が
 「沖縄その他の琉球諸島の軍事占領を継続するよう希望した」
 、という文言を繋げると、 
 「沖縄を売り渡して主権回復した」
 という結論を導き出すには、些か以上に無理があります。
 反対に、「軍事占領」ならば、「信託統治」ではないのだから、時局が安定すれば、返却しないという理由がなくなります。



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重複する部分がありますが

2022年05月25日 | 心の持ち様
 前回の転載に関係するので。


樋泉克夫のコラム 
@@@@@@@@

【知道中国 2370回】    
  ──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習36)

  ▽
彼女が北京大学に在籍していた61年から62年が最悪で、キャンパス内の木々に稔る果物ばかりか、柔らかい葉までもがアッと言う間に食べ尽くされ、枯れ木と化してしまった。北京の豪華ホテルで提供される料理は、スウェーデンの乞食の食い物と同じ程度だったとか。

 北京の街角でも郊外でも、旅先の天津や上海、杭州、蘇州、さらには武漢でも、彼女は大躍進の惨状を記録する。
日本からの旅行団も同じ頃、同じような行程を辿ったはずなのに、豪華招待旅行を“堪能”するばかり。帰国後の報告などに目を通しても、「豊かな中国」「ハエもドロボーもいない中国」を語ってはいるものの、大躍進の惨状には全く触れてはいない。

 スウェーデンの名もない女子大生の目に見えていたものが、なぜ日本の大人には見えなかったのか。それが不思議でならない。
そこで、この問題をもう少し。
 ロラン・バルトといえば記号論・構造主義で知られたフランスの哲学者・批評家であり、新左翼華やかなりし頃には、フランス共産党に反対し、ソ連を修正主義と強烈に批判していた。
我が国にも蔓延っていた無責任な新左翼には、限りなく有り難い教祖サマだった。

 1974年、在仏中国大使館が、バルトと数人の仲間を毛沢東思想原理主義の四人組が猛威を振るっていた文革末期の中国に招待した。「現地の中国人との接触が持たれないように、旅行コースはあらかじめ決められ、添乗員・通訳が常に同伴する上に、参加者が各自費用を負担するという旅行計画であった」(「訳者あとがき」)。4月11日から5月4日の間、上海、南京、洛陽、西安、北京と回っている。

中国各地での思いを綴った『ロラン・バルト 中国旅行ノート』(筑摩書房 2011年)には数多くの興味深い記述が見られる。たとえば、
 ■林彪、事あるごとに利用されるスケープゴート。
■いつでもどこでも重要なのは、ただ官僚制(階級制度、区分)が日常的・全体的に再興しているという問題である。
■(ある工場で)日が照っているにもかかわらず、ここは陰鬱だ。1日8時間? 彼女たちは汚らしい。そして口を開かない。

■(同じく工場で)趙は言った:「昔、女性は家で家事を行う道具でした。現在(頭を仕事場の方に向けて)彼女たちは自由の身になったのです。お金のためではなく、解放のために、社会主義の確立のために」。
■趙のおきまりの格言:中国体操:身体と精神のため。わたしならmens fada in corpora salopと言う方が好きだ。/mens・・・の意味は「狂った精神は汚れた身体に宿る」
■感謝の常套句、過去の常套句。〔これは、貧しい者たちのテーマ〕。
■人民公社の責任者、かなり怪しい人物:真の指導者、責任者の振る舞い──それがおそらくは権威である。

 ■襞のない国。風景は文化に仕立て上げられていない(土地の耕作を除いて):歴史を物語るものは何もない。・・・風景はだんだん素っ気ないものになる。味気のない国。/訳者は「cultureには『耕作』と『文化』の2つの意味がある」と注記する。
■すべてが中華思想。他国にも同様にさまざまな社会や村落がありうるという考えは全くない。民俗学はもみ消されている。比較研究は皆無。
■中華社会主義思想:すべては愛する公社、原始的な集産主義への嗜好。
■2人の若い労働者がいるテーブルにつく。彼らはとても清潔で、細い手をしており(《修理工》だろうか?)
・・・ここの《労働者》は皆、細くて清潔な手をしている。

 ──バルトは「とても清潔で、細い手をして」いる若い労働者を、「修理工だろうか?」と素直に疑った。
たしかに労働者が細くて清潔な手をしているわけがないだろうに。


「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)5月23日(月曜日)弐
        通巻第7346号 より  

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「中国にはハエ一匹いない」

2022年05月24日 | 心の持ち様
樋泉克夫のコラム 
 
【知道中国 2369回】   
 ──習近平少年の読書遍歴・・・「あの世代」を育てた書籍(習35)

  ▽
 もう少し凄まじい話を続けたい。
当時、北京で幼少期を送った映画監督の陳凱歌は、自らの半生を綴った『私の紅衛兵時代』(講談社現代新書 1990年)で、「いまでも私は覚えている。マーケットの周りで野菜の根やクズを拾い集めては、細かく切り、サツマイモの粉で包んで野菜団子を作った。両手でそっと持ち上げないと、ばらばらになってしまう。学校にいた大勢の子供のなかには、休み時間に大豆を五粒もらえるのを楽しみにしている子もいた。香ばしくなるまで煎ってから、汗がでるほど手に握り締めて、それからしょっぱいのを一粒ずつかみしめる。それでも、足にはむくみが浮いたままだった」と、当時を振り返っている。

 首都でこの惨状である。ならば地方は想像を絶するばかりだった。
 「河南省では、生産目標で決められた国への売り渡し穀物を確保するために、武装した民兵が、小さなほうきで農民の米びつの底まできれいに掃き出していた。さらに封鎖線を張って、よそへ乞食にでることを禁止した。まず木の皮や草の根が食い尽くされ、やがて泥にまで手が出された。そして、道端や畑、村の中で人々がばたばたと死んでいった。三千年にわたり文物繁栄を謳われた中原の省に、無人の地区さえできてしまったのだ。後になって、後片付けの際、鍋の中から幼児の腕がみつかった」と、陳凱歌は記す。

 陳の生まれは1952年8月で、習近平は53年6月。習近平の両親ほどではないにしても、陳の両親もまた共産党の幹部だった。だとするなら習近平も陳と同じような生活環境に在ったはずであり、同じような記憶が頭の片隅に今でも刻まれていることだろう。

 まるで幽鬼に充ちた地獄絵図のような惨状について、当時の日本では伝えられることはなく、「中国にはハエ一匹いない」「誰もが豊かで満ち足りた生活を送る地上の楽園」と言った類の見解が学界やメディアで大いに喧伝されていたものだ。

 当時の日本は60年安保闘争が盛り上がり、革新勢力、進歩的知識人、親中系政治家・経済人・メディア関係者などがアゴアシ付きで中国に招待されていた。彼らを使って親中ムードを盛り上げ革新勢力にテコ入れし、反動保守勢力を孤立させ、安保反対運動を支援し、日米安保体制に風穴を開け、日本におけるアメリカの影響力を削ぎ、あわよくば日本弱体化を狙った。いわば日本は共産党政権の統一戦線工作に巻き込まれたのである。

 この頃、1人のスエーデンの女子大生が北京大学に留学した。後にスエーデンを代表する中国通となるセシリア・リンドヴィスト(1932年〜)である。彼女は当時の記録を『もう一つの世界 中国の記憶 1961-1962』(2015年)として残しているが、北京大学キャンパスにおける状況を次のように綴っている。

 「(清明節が終わり春耕期になると)キャンパスの様相は一変した。学生は建物の間の地面という地面の土を掘り返し畑にし、主に豆類のタネを植えた」

 「(栄養状態は劣悪で)5月中旬になると体調不良の学生が続出したため、休講となった。誰もが力なく学生寮の自分の部屋にゴロンと横たわり、あるいは便所で絶望的に蹲るしかなかった。寮全体に嘔吐の音が絶えることなく、排泄されるのは黄河の流れのような色の排泄物だった。便所の排水溝は塞がれ、逆流した排泄物で床はツルツルになり、滑って転ばないよう細心の注意を払った」

「(某教授は)いよいよ絶望的になる経済状況に怒りを募らせるばかり。そして『こんなのは我々が重ねてきた奮闘努力の目標ではない。30年昔、私が理想として描いていた社会とは全く違ってしまった』」

「中国社会の変貌に北京大学の外国人留学生は学習意欲を失い、多くが帰国し、留学生寮の1棟は閉鎖された。〔中略〕アフリカ人留学生は仮病を使って、あるいは故意に警察官に暴行を働き国外退去処分を受けるなど、1962年には90%のアフリカ人留学生が中国を離れた」


「宮崎正弘の国際情勢解題」 
     令和四年(2022)5月21日(土曜日)
        通巻第7342号  より

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 以前に書いた日記です↓

 「宮崎正弘の国際ニュース・早読み」 
  平成25(2013)年3月4日(月曜日)
    通巻第3891号 より 

  樋泉克夫のコラム
  【知道中国 869回】             
   ――mens fada in corpora salop・・・狂った精神は汚れた身体に宿る
     『ロラン・バルト 中国旅行ノート』(ロラン・バルト 筑摩書房 2011年)
 ▽
 記号論、構造主義で知られたフランスの哲学者・批評家の著者(Roland Barthes:1915年~80年)は新左翼華やかなりし当時、フランス共産党に反対し、ソ連を修正主義と批判していた。我が国にも蔓延っていた無責任な新左翼にとっては、ゴ本尊サマだった。

 1974年、そんなロラン・バルトが数人の仲間と共に、在仏中国大使館の招きに応じ、毛沢東思想原理主義を掲げた四人組が猛威を振るっていた文革末期の中国を旅行する。「現地の中国人との接触が持たれないように、旅行コースはあらかじめ決められ、添乗員・通訳が常に同伴する上に、参加者が各自費用を負担するという旅行計画であった」(「訳者あとがき」)
■襞のない国。風景は文化に仕立て上げられていない(土地の耕作を除いて):歴史を物語るものは何もない。・・・風景はだんだん素っ気ないものになる。味気のない国。/訳者は「cultureには「耕作」と「文化」の2つの意味がある」と注記する。

■すべてが中華思想。他国にも同様にさまざまな社会や村落がありうるという考えは全くない。民俗学はもみ消されている。比較研究は皆無。
■中華社会主義思想:すべては愛する公社、原始的な集産主義への嗜好。
■2人の若い労働者がいるテーブルにつく。彼らはとても清潔で、細い手をしており(《修理工》だろうか?)・・・ここの《労働者》は皆、細くて清潔な手をしている。

 この中国旅行の10年程前、大躍進の飢餓地獄に苦しんでいたはずの中国に招待された日本文学代表団に参加した若き日の大江健三郎は、「僕がこの中国旅行でえた、最も重要な印象は、この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっているということだ。
・・・ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた。・・・一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」と感涙に咽んだ。
 毛沢東=共産党政治の詐術に、大江は「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ」と見事に引っかかる。
だが、同じ招待を受けながらもロラン・バルトは「細くて清潔な手」な《労働者》に疑念を抱く。新左翼とはいえ、さすがにゴ本尊サマだ。“眼力”が違う。 
 それにひきかえ情けないのが大江だ。やはり目は節穴だった。
   転載了
 ・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

 (ここから私の感想)
 若い「労働者」の、細くて清潔な手に疑念を抱いた者。
 修理工ならば、もっとガサガサした、爪や指紋にいくら洗っても落ちない、機械油の染みついたごつい手をしていることを知っていながら書いてるみたいですね。つまり、「彼らは労働者ではない」、と。
 農民だったら、宮沢賢治も詩の中に「~ぎちぎちと鳴る 汚ない掌を、おれはこれからもつことになる」、とうたっているように、決して労働者は「細くて清潔な手」ではない。
 
 そしてもう一方は。
 「この東洋の一郭に、たしかに希望をもった若い人たちが生きて明日にむかっている」
 「ぼくらは中国でとにかく真に勇気づけられた」
 「一人の農民にとって日本ですむより中国ですむことがずっと幸福だ、とはいえるだろう」
 大躍進運動の爽やかな笑顔の裏側は全く見えてない。見ようとしなかったのか。それとも単に見えなかったのか。

 見えなかった。そして、後になってそれに気が付いても、今度は頑なに見直そうとしなかった…のではないか、と思います、「沖縄ノート」問題のその後を見ると。 
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得てしてこういう時は

2022年05月23日 | 日々の暮らし
 先日来、カブのフロント周辺から妙な音が聞こえる。
 振動音?エンジン音?機械音?以前のような、カチカチというタペット音ではないし、フロントキャリアの留めネジが緩んだビーっというような音でもない。
 もっと低いバリバリというような音。

 不快感はないが、不快感がないからと好意的に(?)放って置くとろくなことにならない。このくらいならまあいいか、と放って置いたら犯罪の温床になったニューヨークの地下鉄の例もある。
 SRのガソリンタンクの切り替えコック辺りから、何かの拍子にガソリンが滲むような感じがあった。店でそれを言って「いつもというわけじゃないけど。もうちょっと様子を見ますかね」と続けたら、悪くなることはあっても良くなることはないから、部品を交換した方が良い、との返事。
 成程、こちらは何となく生き物のようなつもりで接しているけど、機械が自助努力をして不具合を修復するまでには至ってない。また、そうなったらそれはもう機械ではない。何だっけ、車が変身する映画、あれは自身、生命体だと言ってたと思うけど。
 
 とにかく、感覚が鈍いせいか、不具合からの音なのかそれともどうでもいい音なのか、判別ができない。
 何よりもの問題は、乗っている時だけそんな疑問が湧いてきて、降りてしまえば数分も経たないうちにそんなことはすっかり忘れてしまうということ。

 今日はそれで、乗っている時に「もしかしてこれ、前かごに入れているドライバーと前かごの干渉音か?」「いや、前かごの買い物袋の下に置きっ放しにしているチェーンロックと買い物袋の干渉音?」と思いつく。
 
 帰ってから確かめることにした。
 と言っても走っていなきゃ分からない音なのだから、まずはチェーンロックを買い物袋の下から買い物袋の中に移動させよう。前かごと直接当たるようにしなければ音は起きないかもしれない。
 そうは言っても、「確認のためにもう一度走ってみる。駄目だった」、では無駄骨になるかも。だからその前に先回りしてフロントキャリアーの留めネジの増し締めをしておこう。

 これがめんどくさい作業だった。フロントキャリアの留めネジを締めようと思ったら、まず前かごを外さなきゃならない。外すのにネジを四つ外さなければならない。緩衝材や座金、留め板を紛失しないように。・・・う~っ、めんどくさい。
 外してチェック。結局緩んでいる部分はなかった。
 また四苦八苦してカゴを取り付ける。

 ・・・・・空振り。
 でも、空振りでよかった、と考えるべきなのかもしれない。

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べっ、別に急いでないからね~!

2022年05月22日 | 日々の暮らし
 5月16日(月)

 昨日は6時前に起きる。
 9時過ぎてパン屋に電話を入れ、昼前には行くからとパンを注文。
 この時点で朝食は終えている。
 なのに実際に出たのは、またしても11時半を回っていた。
 当然昼前には間に合わない、蕎麦屋の出前。

 案の定、店に着いたのは12時を10分ほど過ぎてから。
 だからと言って相手も客商売、別に文句を言われるようなことはないのだが、いつも時間を言っておいて間に合ったことはほとんどない。
 店の準備の都合を考えれば早過ぎるより遅い方が良いはずだが、それにしても遅刻常習というのは・・・・。それは注意が必要。

 パンをリュックに入れ、後はどこにも寄らず引き返し、有馬街道を自宅へ向かう。
 ふと気が変わり、鈴蘭台の方へ左折。西鈴に行こうとする。又気が変わり、神鉄を跨いだところで右折、鈴蘭台の方に向かうことにした。

 右折したらすぐに神鉄の踏切がある。鉄道のジオラマにしたら面白いだろうと思う地形の中の鉄路をたまに見たくなる。今日もそれだったのかもしれない。
 踏切前で一時停止。ハンドルミラーに寸前で追い抜いた女の人が映っている。
 女の人も一時停止しているのは、こっちが動き出してから踏切を渡ろうと思っているからなんだろうけど、歩行者優先。第一、こちらは止まったばかりでまだ左右確認もしていない。手で合図をして先に行ってもらう。

 十分に距離を取ってから出ようと思って、数秒後スロットルを回し、停止線から1メートル余り、踏切に入るところで警報機が鳴り出した。
 行くか。戻るか。
 そのまま突っ切っても問題は起こらなかっただろうが、もしもということがある。

 バックして電車が通過するのを待つ。
 僅か3輌か4輌の電車だ、さほど時間は掛からない。でも3輌か4輌の電車だって轢かれたらアウトだ。
 しばらくして、遮断機が上がる。・・・と思ったら反対側の警報機が鳴り出した。遮断機は当然上がらない。間の悪いことはあるものだ。

 けど、上下通過したんだから、後は大丈夫。
 遮断機が上がる。上がり切ったところで出発と思ったら、上がり切った瞬間、又警報機が鳴り出した。
 駅まで百メートルほど。急行通過待ちの各駅停車が駅に居たらしい。
 遮断機も休憩する間もなく慌てて降りてくる。

 ここまでいくと、もう苦笑するしかない。
 別に急いでないからね! 仕事してないし!

 苦笑する余裕は山のようにある。
 

 

 
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