落語の聴き方 楽しみ方 (ちくまプリマー新書) | |
松本 尚久 | |
筑摩書房 |
☆☆
このちくまプリマー新書は、初めての新書というコンセプトで、
中高校生対象と思えるが、前の「多読術」と云い、中年でも目から鱗のような
、手にとった本は、案外はまってしまう。
この本も、落語とは何かを考えつつ、その聴き方楽しみ方を探る落語論。
人は落語をきいてなぜ笑うのか、落語における時間の流れ方、
落語はドラマを排除すること、登場人物がみな無名であること、などから、
落語という芸の特異性に迫る
・・・・・・・とあるが、硬い様な柔らかい様な、おもしろい落語論である。
能とか浄瑠璃が「歴史」に物語にモチーフを求めたのに、落語は新しく、
現在的でなければならない、その為、落語では、口編に新しいと書いた「噺」の
文字が使われる。聴き手はストーリーの中の出来事が現在的だからこそ、
それを生々しく実感することができると・・・。
又、講談と落語を比較して、よく、「地の語り」を中心に進められるのが講談で、
「会話」を中心に進められるのが落語という説明がありが、間違いではないが、
本質的な両者の違いは、それが過去のものであるか、
現在的なものであるかです、と。
語り手が「本」、つまり「過去」に書かれたはなしを読むのが「講談」で
「本」にはまだ書かれてない「現在」のはなしを語っているのが落語であると、
口伝えでの稽古が基本であり、案外「地の語り」で展開する落語とか、
合間で「地の語り」とか挟み込む演者が好きになれない理由が解った気がする。
マクラは何のためにあるのでしょうかと。
落語では、落語家が作品世界にたいして創造主的な役割を
引き受けなければなりません。しかし、義太夫の太夫や講談師のように
作品を保証するよりどころ=本をもたない落語家は、
観客にしては信用が置きにくく、自分がどんな人物か解ってもらう
小さな信用が、「マクラ」の役割と・・演者も初めてではなく、演じる演目も解って
心の準備が出来ている時は、無くても良いが、新人などのマクラのない落語
では、落語の世界に馴染むのに時間がかかっている理由がよく解る。
上方落語は、東京落語比べて「笑い」を主眼においていす、と。
上方の社会に落語を「笑い」の領域にとどめておくべき必然があったのでしょう。
「寄席」と「座敷」と普及したところの違い以上に、上方落語に人情ばなしの
伝承がないのと、上方落語に与太郎が出てこないことは同じ根に
つながっていると。
人情ばなしでは、流れている時間が、現実世界の時間に近く、
人間の心理の動きが微細に表現されるので、演技の時間は必然して長くなると。
東京の噺家さんの演じる「芝浜」、「柳田格之進」などが長くなるのは
いたしかたがないことなのか。
最後に、落語に描かれた風俗などは今後ますます失われていく、
そして好むと好まざるとにかかわらず、落語の中の世界と、
わたしたちの暮らす世界とは遠のいていくに違いありません。
しかし、これからの落語家さんは、みずからの位置とはなしの距離を
・その遠さを・・厳密に定め、それを示さなければなりませんと・・・
(決して、貨幣単位を変えたり、すっくり現代に置きかえたりのことではない)
それが現在の落語の「芸」であり、現在の落語家は、すぐれた現代人でなければと。
落語に関するする本として、初めて手にするには、真面目過ぎるぐらいで、
口調は柔らかいが、中身はいたって硬く、内容の濃い本である。