ネットの古書店で内山興正老師の「自己」を
買いました。
「自己」の副題に”宗教でない宗教”と
書いてあり、その意味が読んでいると
じわじわと沁みてくるのです。
内山興正老師は早稲田を出て、神学校の
教師をされていましたが、沢木興道老師に
ついて出家得度された方です。
内山興正(こうしょう)老師が、横浜の
ミッションスクールでキリスト教の話を
「坐禅人のかたる聖書の味わい」という
かたちで、昭和29年から33年まで5年間
生徒達にされたお話しも載っていました。
いや~凄い本です。
初女さんも、よく仏教関係に呼ばれて
お話ししてました。
キリスト教、仏教という宗教という囲いを
超えたお話しと言うのは、同じところに
行くような気がしました。
内山興正老師は「信仰が真に信仰で
ありうるのは、こちらが探し求めて
発見するのではありません。
反対に、神様の方が私を呼び求めている
その声に気づかされ、答えるだけです…
つまり信仰は”神からのもの”であり、
祈りは神の呼び声にたいする答えです。」
と、書かれています。
初女さんも
「信仰のみなもとは、愛を受け容れること。
それは誰もが生まれたときからできて
いることで、特別なことではありません。
信仰は自分でつくるものでなく、
与えれ受けとるものです。」と語っています。
今の日本人は宗教とか信仰に対する
アレルギーが強くて、拒否反応が先に
きてしまいがちですが、お二人の言葉を
よく噛みしめてみると、頑なな心が
ほどけて来るような気がします。
森のイスキアにも、初女さんから学ぼうと
雲水さんたちが来たと聞いています。
初女さんは、「キリスト教と仏教は
どう違うの?」と子どもに問われて
『お山があるでしょ。
こっちから登ってもあっちから登っても
頂上はひとつですね。
めざすところは一緒です。』と答えて
います。
私は、信仰とはこちらが求めて行くものだと
ずっと思っていましたが
私たちは誰もが、神さま仏さまに
呼ばれている存在なんですね。
初女さんの言葉が静かに心に降りて来ます。
「信仰のみなもとは、愛を受け容れること…」
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