先週末は息子夫婦と万座温泉に一泊旅行だった。初日は途中にある群馬県富岡市の「富岡製糸場」を見学した。
この工場は、明治政府が新産業を育成し国家の近代化を目指す殖産興業政策の一環として、明治5年(西暦1873年)と言うから140年ほど前に建設された生糸の製造工場で、当時としては世界最大規模。建設から100年以上にわたり休むことなく操業が続けられたという事実にも感心させられる。
1987年に操業を停止した後も工場の保存管理がしっかりと行われてきたことから、木骨レンガ造りの建物や製造機械が良好な状態で保存されており、現存する昔の製造設備としては世界的にも価値があるとして世界遺産への登録を目指している。
世界遺産に登録されると大勢の人が押し寄せ、ゆっくり見ることが出来なくなるので、早い時期に一度訪れたいと思っていた場所でもあった。
商店街を抜けると富岡製糸場の正門がある。
地元ボランティアによるガイドツアーの集合場所は入って直ぐのチケット売り場横。約1時間のガイドツアー(無料)は非常に分かり易い解説でこの工場の歴史を良く理解できた。
正門を入ると目の前にある「木骨レンガ造り」の建造物。
主に製品や繭の保管場所として使用された建物で長さ104m。敷地内には同じ大きさの建物がもう1棟あって、こちらも倉庫として使われていた。
倉庫にしては窓が多いが、これは繭を乾燥させるために設けられた。
中庭に通じる通路の上部には、建設年「明治5年」を示すプレートが残っている。
木の柱で建物の重量を支えているため、壁にはあまり力がかからないことから、レンガが割れることなく良好な状態が保たれている。
レンガ色にムラがあるのは、レンガの焼き温度が一定でないことによるもので、製造技術の未熟さを表しているとか。逆にレンガの風情が感じられる。
柱は30.3cmの角材で樹齢250年近い一本の木から切り出した物で、妙義山などから伐採した後、川を使って近くまで運んだとの事。
全て柱の芯には、年輪の中心部が来ていて、一本の木から切り出したことが見て取れる。
天井部分は、重量を支えるには好都合な三角形を組み合わせたトラス構造になっている。
倉庫の隣にある「繰糸工場」と呼ばれる長さ140.4mの同じく木骨レンガ造りの建物には、繭から生糸を取り出す機械設備 「自動繰糸機」が保存されている。この機械は明治40年代以降に設置されたもので、それ以前は作業の一部を女工が手で行っていた。
この工場で性能が証明された機械設備は、当時日本の機械輸出の花形でもあったと言うから、生糸共々外貨稼ぎに一役買い、明治政府の思惑通りに計画が進んだことの証でもある。
工場建設の指導者としてフランスから招かれた技師、ポール・ブリュナ氏とその家族が暮らした住居。
建坪300坪以上の建物を準備して同氏を迎え入れた事実を考えると、明治政府の力の入れようが伺える。
この建物は中に入れず、外観見学のみ。
日本の工女に糸取り技術を教えるために雇われていたフランス人女性教師のための住居。
生糸や製造設備の検査を担当したフランスの検査人のための住居。
内部にはマントルピースなど、ほぼ当時のままの状態で残っているらしいが、こちらも内部は見学できない。
見学を終えての感想は、100年以上前に国家の発展と近代化を目指す殖産興業という政策を掲げ、それを着実に実行に移そうとする当時の政府関係者の熱い想いを感じさせる施設だった。
一方で常日頃から政局に明け暮れ、国の将来図を描けない今時の日本政府、何とかならないものだろうかといつもの愚痴が出てしまう。
この工場は、明治政府が新産業を育成し国家の近代化を目指す殖産興業政策の一環として、明治5年(西暦1873年)と言うから140年ほど前に建設された生糸の製造工場で、当時としては世界最大規模。建設から100年以上にわたり休むことなく操業が続けられたという事実にも感心させられる。
1987年に操業を停止した後も工場の保存管理がしっかりと行われてきたことから、木骨レンガ造りの建物や製造機械が良好な状態で保存されており、現存する昔の製造設備としては世界的にも価値があるとして世界遺産への登録を目指している。
世界遺産に登録されると大勢の人が押し寄せ、ゆっくり見ることが出来なくなるので、早い時期に一度訪れたいと思っていた場所でもあった。
商店街を抜けると富岡製糸場の正門がある。
地元ボランティアによるガイドツアーの集合場所は入って直ぐのチケット売り場横。約1時間のガイドツアー(無料)は非常に分かり易い解説でこの工場の歴史を良く理解できた。
正門を入ると目の前にある「木骨レンガ造り」の建造物。
主に製品や繭の保管場所として使用された建物で長さ104m。敷地内には同じ大きさの建物がもう1棟あって、こちらも倉庫として使われていた。
倉庫にしては窓が多いが、これは繭を乾燥させるために設けられた。
中庭に通じる通路の上部には、建設年「明治5年」を示すプレートが残っている。
木の柱で建物の重量を支えているため、壁にはあまり力がかからないことから、レンガが割れることなく良好な状態が保たれている。
レンガ色にムラがあるのは、レンガの焼き温度が一定でないことによるもので、製造技術の未熟さを表しているとか。逆にレンガの風情が感じられる。
柱は30.3cmの角材で樹齢250年近い一本の木から切り出した物で、妙義山などから伐採した後、川を使って近くまで運んだとの事。
全て柱の芯には、年輪の中心部が来ていて、一本の木から切り出したことが見て取れる。
天井部分は、重量を支えるには好都合な三角形を組み合わせたトラス構造になっている。
倉庫の隣にある「繰糸工場」と呼ばれる長さ140.4mの同じく木骨レンガ造りの建物には、繭から生糸を取り出す機械設備 「自動繰糸機」が保存されている。この機械は明治40年代以降に設置されたもので、それ以前は作業の一部を女工が手で行っていた。
この工場で性能が証明された機械設備は、当時日本の機械輸出の花形でもあったと言うから、生糸共々外貨稼ぎに一役買い、明治政府の思惑通りに計画が進んだことの証でもある。
工場建設の指導者としてフランスから招かれた技師、ポール・ブリュナ氏とその家族が暮らした住居。
建坪300坪以上の建物を準備して同氏を迎え入れた事実を考えると、明治政府の力の入れようが伺える。
この建物は中に入れず、外観見学のみ。
日本の工女に糸取り技術を教えるために雇われていたフランス人女性教師のための住居。
生糸や製造設備の検査を担当したフランスの検査人のための住居。
内部にはマントルピースなど、ほぼ当時のままの状態で残っているらしいが、こちらも内部は見学できない。
見学を終えての感想は、100年以上前に国家の発展と近代化を目指す殖産興業という政策を掲げ、それを着実に実行に移そうとする当時の政府関係者の熱い想いを感じさせる施設だった。
一方で常日頃から政局に明け暮れ、国の将来図を描けない今時の日本政府、何とかならないものだろうかといつもの愚痴が出てしまう。