もういつ死んでもおかしくない年齢になっているけれど、その前にやりたいこと、やらなければならないことがある。
それが、子ども食堂だ。
その存在を初めて知った時は、胸の中でなにかがぐるぐる回ったような気がした。
僕がやらないで、いったい誰がやるんだ、というくらいの思い込みすらある。
雑事に追われて、組み立てる余裕もないまま年月だけが過ぎているのが現状だけれど、自分なりの形で必ず実現させる。
あ、宣言してしまった。
https://www.huffingtonpost.jp/aport/movie-20180412_a_23408260/
「子ども食堂はなぜ広がったのか? 背景を描く映画『こどもしょくどう』、『火垂るの墓』の日向寺太郎監督が製作」
「ハフィントンプスト日本」平成30年4月12日掲載記事
https://yomidr.yomiuri.co.jp/article/20180416-OYTET50027/
「貧困家庭支援『子ども食堂』が資金難、食中毒や事故も課題に」
「ヨミドクター(読売オンライン)」平成30年4月18日掲載記事
「まだ事業所が一つか二つだったころ、シオーモ市で開催された小規模多機能型ホームの公開セミナーに出席した。
シオーモ市社協が運営するホームの管理者と、隣りのT市で民家改修型ホームを運営している民間事業者の管理者の二名が話題提供者だった。
登壇したスピーカーにちょっと驚いた。
ケアマネジャーで管理者だというその女性はどう見ても二十代後半で、ロングヘアにピンヒール、およそ介護職には見えなかった。
ウチの管理者も若い女性だったけれど、まるでタイプが違っていた。
ところが、彼女が写真スライドを使いながら楽しそうに話すおんぼろホームでの賑やかな日常は、とても魅力的だった。
無意識のうちに、僕は自分のホームのそれと比べていた。
若く働き盛りで行動力があり、職員思いの経営者とともに、苦労は多いものの、やりがいを持ってサービス提供にあたっている、とも彼女はたびたび語った。
そして心底びっくりしたのは、スライドのラストがその経営者のアップ写真だったこと。
会場に彼はいただろうか。
もしいたとしたら、最高のサプライズ・プレゼントだ。
尊敬と愛情がなければ、絶対にこういうことはない。
楽しい内容だったにもかかわらず、聞き終えた僕はひどくイライラしていた。
僕はそれまで(そして現在も)自分の時間も私財もすべて会社に費やしてきた。
それをアピールするつもりは決してないし、それはカッコ悪いことだ。
けれども、理解者もいないのだな、とその時思い当った。
翌年、僕はたびたび意見が食い違っていた管理者を追い出すことになるのだが、今思い返すと、あのセミナーが遠因になったのかもしれない。
幸い後任に恵まれて、その方と野山を駆け巡って切り取り御免でNPO法人なごやかを飛躍的に発展させた。
そして、いつしかジェラシーも、とげとげしい気持ちも、霧散していた。
ちなみに、その後あちらの経営者は訳あって事業を準大手へ譲渡している。
(これを言い添えてしまうことが、明らかに僕の執念深さだろうね。)」
昔、夢中になった映画。内容は全く関係ありません。
やまねこデイサービスが公休の日、私は時々喫茶店アルファヴィルで接客を手伝っている。
今日はオーナーがNPO法人なごやか主催の認知症カフェで美味しいコーヒーを入れてくれることになっており、その不在の間、私がアルバイトのIさんとお店に立っていた。
たぶん、なごやかの理事長はオーナーのコーヒーよりも、その優れたホスピタリティを借りたかったのだろうと私は想像している。
当のオーナーも、口にこそ出さないが理事長の願いはお見通しのようだった。
小柄なIさんは、赤いポニーのワンポイントが入ったTシャツのほかはいつものように全身黒づくめで、さながら女スパイといったいでたちだ。
どこかでお花見はしました?
私が尋ねると、Iさんは少しためらってから答えた。
ううん、故郷の弘前の桜を見て育っているので、よそのものでは満足できないの。
今年も満開のところを見に、ゴールデンウィーク前に帰ろうと思っています。
へええ、それはいいですね、と私が言うと、彼女はいたずらっぽく笑った。
夫と結婚する時に、少し困らせてやろう、と思いつきで言った条件だったの。
それがだんだん習慣になって、あちらの桜にも一層愛着が湧いて。
私の郷土愛は桜とイコールなのね。
S市内でりんごタルトが美味しいパン屋があると聞いて訪ねたところ、閉店していた。
すでに看板が外され、ショーウインドウの中は真っ暗で、寒々としたたたずまいになっていた。
いくら人口百万都市とはいえ、天然酵母のパンは客の好みが分かれることから、商売として難しかったのかもしれない。
今はすっかりさびれた商店街で生まれ育ち、自分も含め同級生のほとんどがみなお店の子供だったせいか、僕は店が閉まるのが他人事ではないような気がして、胸にこたえる。
だからこそ、自らの事業は繁盛店であり続けたいと願うのだ。
映画化された「風の歌を聴け」(1981年)の中で、大学生の主人公(小林薫)と神戸の埠頭に並んで座った小指のない女の子(真行寺君枝)が物語る、実家のパン屋がある事件をきっかけに閉店を余儀なくされ、さらに一家が離散するエピソードを、この日は久しぶりに思い出した。
部活動で遅くなった娘を迎えに行き、高校の正門前に車を停めて待っていたところ、昇降口から出てくる彼女にガラス戸を開けてくれた男子生徒がいた。
車へ乗り込んできた娘に、あれは知り合いかと尋ねると、ううん、知らないひと、でも、たまにいるよ、開けてくれる男の子、との答えだった。
へええ、僕の頃は(共学化前の)男子校だったから、ただただむさ苦しくて、それが嫌で学校に行かなかったのだけど、今のK高には紳士がいるんだね。
ちょっと驚いたし、なんだか嬉しくなった。
「ここは一体どこなのでしょう、教えていただけます?」
「みなにブタ小屋だと言われている、僕のアパートです。」
「力づくで私を連れてきたのですか?」
「いえいえ、むしろその反対です。」
「私は一晩中ここにいたのですか、ひとりで?」
「僕を勘定に入れなければね。」
「私はあなたと一夜を共にしたのですか?」
「その言い回しはあまり正確とは言えないけれど、でも―見方によっては―そうです。」
「―はじめまして。」
「よろしく。」(握手する)
「あなたのお名前は?」
「ブラッドレー、ジョー・ブラッドレーです。」
(池田昌子と城達也の吹替え風に)