リュート奏者ナカガワの「その手はくわなの・・・」

続「スイス音楽留学記バーゼルの風」

蘇るファン・デ・ゲースト

2019年06月25日 17時14分20秒 | 音楽系
ヤコブ・ファン・デ・ゲーストは古楽の黎明期である70年代からその実力が高く評価されていた製作家です。スイスのヴェヴェイにスタジオを構え多くの作品を製作してきましたが、惜しくも40代で早世しました。スイス留学時代お世話になった同じくスイスの製作家、モーリス・オッティガーは彼の愛弟子です。

このファン・デ・ゲーストの1973年製バロック・リュートをひょんなところで「発見」した顛末は以前のエントリーで書きましたが、簡単におさらいしておきますと:

伊勢のギター製作家、河村和行さん宅をお伺いした折り、部屋の片隅に置いてあるリュートらしきケースに気づき尋ねてみると、70年代の中頃に関西でリュート奏者今村泰典氏に偶然電車の中で会い、それが縁で譲ってもらった楽器とのこと。楽器の製作年は1973年、弦長68cm、13コースのバロック・リュートで河村さんが製作のプロの視点できちんと保管していたお陰で、故障もなく表面板の焼け具合なんかは10年モノの楽器より白いくらいだった。楽器のケースには、当時使っていた弦のデータ(ファン・デ・ゲーストのオリジナルと今村氏のもの両方)表も残っていた。この楽器を私の生徒さんが買うことになり今に至る。



これが1年くらい前のことですが、最近表面板の継いであるところの接着が劣化して左右の一部が剥がれてきましたので、九州の製作家松尾さんに修理をして頂きました。修理内容は、表面の隙間を埋めて裏から薄い板を全体にわたりあててもらいました。表面板を開けることになるので、パーチメントも新しいものに交換、当然リブと表面板の接着も新しくなるわけで、楽器胴体の接着部分はブリッジを除いて「新品」になりました。ブリッジも46年も経っているので膠が劣化していますが、松尾さんの判断ではわざわざ剥がして再接着するよりは様子見の方がいいだろうとのことでした。



今までは膠の劣化による強度不足が考えられることから、13コース分の弦は張らず11コースだけにしてさらにピッチも392にしていましたが、今回の修理で膠の劣化部分はほとんどなくなったので、13コース全部張り、415のピッチにすることに致しました。

当時の弦のスペックを見ますと、ピラミッドの巻き弦とナイロン弦の組み合わせで、4コースにはアルミ巻き線が使われています。総張力を計算してみましたら、52kg弱でした。この弦の組み合わせは当時としては普通でしたが、5コース、4コースの弦に適切なものがなく、ナイロンの太いのを使ったり、アルミ巻き線を使ったり、はたまた少々アンバランスを我慢して銅巻き線を使ったりで、いずれも決定打はありませんでした。

ここ何年かは新しい合成樹脂素材や強いガット弦が登場したりして、70年代と比べると弦のセレクションはかなり変わってきています。クラシックギターの弦は70年代と比べても今と大差はないですが、リュート界は今はいうなら弦の戦国時代です。昔ながらのピラミッド社などの金属巻き線とナイロンの人、カーボン弦やナイルガット弦を中音域から高音域に使う人、バスに合成樹脂ローデドナイルガットやカーボン弦を使う人、ガット弦を使う人、ガット弦と合成樹脂弦を組み合わせる人などややこしくて仕方ありません。アマチュアの方の中には、中途半端な情報に振り回されて、全然鳴らない組み合わせなのにこれが古楽的な響きだと信じている人もいる始末です。

素材的にはいろいろありすぎて困るくらいですが、総じて傾向として、金属巻き弦のバス弦のロングサステイン(12、3秒は鳴っています)を避け、昔のバス弦は多分そうであったろうと考えられるショートサステイン(数秒)の弦に変わりつつあると思います。ピラミッド社などの巻き弦のような弦はバロック・リュートの時代にはなく、もっと短いサステインの弦が使われていた筈で、そういう条件でヴァイスなどは曲を書いていると考えられます。実際そういった弦を張ったバロック・リュートで演奏すると往時もこういう感じのバス音が出ていただろうと言うことが実感されます。

トレブルやミッドレンジの弦はガットであろうとナイロンであろうと3、4秒で音が消えてしまいますが、バス弦にショートサステインの弦を使うことで和音を弾いたあとほぼ同じエンベロープで弦がディケイしていきます。これが、バスに金属巻き線をつかっていると、高音部はとっくに音が消えているのにバス弦だけはずっと鳴っている、という現象が起こります。現代のクラシック・ギターでも同様の傾向はありますが、高音部がリュートよりずっとサステインが長いので、リュートのときほどは気になりません。リュートのトレブル音はすぐ音が消えてしまうのです。

さて弦の話が長くなりましたが、このファン・デ・ゲーストに、オリジナルと同じ総張力52kgで、バスにローデドナイルガット弦、オクターブ弦やミッドレンジ、トレブルにはナイロンとナイルガットをつかったスキームを作ってみました。合成樹脂弦で張力52kgというのは計算上の話で、実測値としては5%は張力が下がりますので、実質40kg台というのはウルトラ・ローテンションです。これでうまくなるのかと心配でしたが、これがまた想像以上によく鳴りました。とても味わい深いサウンドで、これは多分楽器が46年経過していることもあるのでしょうけど、ファン・デ・ゲースト作のこの楽器が本来鳴るべきであったサウンドであるような気がします。製作当時は弦が現代的すぎて本来の味が出なかったのが、40年あまり河村氏宅における眠りから覚めたときは、世の中がすっかり変わっていて、自分にぴったりの弦にやっと出会い本来の音を出すことができた、そんな感じです。

ただ、ローデドナイルガット弦を張ると一口にいっても、実は様々な改装を楽器に施さなければなりませんでした。そこはやはり70年代の黎明期に作られた楽器ですので今の楽器とは違います。そもそもオリジナルのままではブリッジの穴が小さすぎて弦が入りません。なぜは12、13コースだけは太い穴が開いていましたが、他はドリルで直径を拡大しなくてはなりませんでした。



この楽器を最初見たときから疑問に思っていたのですが、ブリッジの穴が表面板と平行に開いていないのです。ロゼッタ側が上向きでボディのお尻側が下向きの斜めに開いているのです。穴の拡幅作業をやってみて、その理由がわかりました。恐らく、ファン・デ・ゲーストは、先にロゼッタを接着し、そのあとでロゼッタ側からドリルで穴を開けたのだと思います。(上の写真参照)先に穴を開けておいてから接着するという方法もあると思いますが、ボディのお尻側から長いドリルで穴を開けるという方法もあります。彼の弟子のモーリスはその方法で穴を開けていましたが、師匠はそうはやってなかったのですね。

次に改装したのは複弦の幅の拡幅です。ショートサステインのバス弦は太いのでオクターブ弦とあたってしまいます。2本の弦が当たらないようにするにはバス弦とオクターブ弦の内シロを4ミリ以上にする必要があります。そこでブリッジに細い溝を刻みそこに弦を入れ込むことにより広げます。この方法だとせいぜい1ミリ未満しか広げられませんが、まぁなんとか4ミリ近くに持っていくことができます。ただこれも当時のやりかたでしょうか、ブリッジの幅が少し広めだったり、ブリッジのボディのお尻側の角面が丸くなっているので、作業にいろいろ工夫が必要でした。あとナットの溝も広げないといけません。

こうして張ってみましたら、弦長が短いこともありとても弾きやすく、音のバランスもいいです。52kgという低張力だとペグも緩めなので巻きやすく、ビブラートもかかりやすいです。私の楽器はハイテンションの弦を張っていますが(ラルス・イェンセンが最初から張ってきた弦はさらにテンションが高かったですが)一度ローテンションの弦も試してみたくなりました。でもこれだとコンチェルトは無理だろうなぁ。