ヴァイスの書簡には、「・・・オーケストラや教会での伴奏の際には特別の楽器で合わせております。それは正真正銘のティオルバ(Tiorba)の大きさ、長さ、パワー、そして響きを持ち、同様の効果を発揮します。ただし調弦だけが異なるのです」
この楽器がどういうものかは訳書に第2部第1章参照との注がありますので、当該箇所を見てみます。
「パドヴァのテオルボは使いやすいものであった。・・・調弦は古いリュートと同じもの、つまり、g, d, a, f, c, G, F, E, D, C, H(B), A, G, F, E, D※ である。今日では一般的には我々の現在のリュートのような新しい調絃をとっている」
※中川注)いわゆるgチューニング。H(B)以下には下線が付く。原典にも下線あり。
このパドヴァのテオルボは「長さ(大きさ)5シュー(約150cm)で、指盤上に8コースが複弦で乗っている」楽器です。( )内は中川注です。私が持っているマテオ・セラスのリウト・アティオルバートが約118cm(弦長65cm/90cm)、フレンチ・テオルボが約138cm(75cm/117cm)です。私のフレンチテオルボ規模の大きさで、もう少し大きい楽器ということになります。
そういった楽器を「我々の現在のリュートのような新しい調弦」すなわちいわゆるニ短調調弦(f, d, a, f, d, A, ...)にしていたということですが、弦長75cm超の楽器にfの音で1コースが張れるものでしょうか。私の体験的には70cmのバロック・リュートの1コースでぎりぎりで、75cm超では張れるような細い弦はないと思います。
原文ではこのあたりは結構微妙な言い回しをしています。
「我々の現在のリュートのような新しい調弦」の(原文)=die neueLauten=Stimmung, die unsre je(t)zige Laute noch hat
ここで気になるのが noch という言葉が気になります。「現在のリュート」の調弦そのまんまをパドヴァのテオルボにしているのではなく、何か少し変えた調弦であったような感じを受けます。訳文も「のような」をつけているのはそのあたりを意識をした訳文ではないかと思われます。では具体的に「のような」を示す文献はないのでしょうか。
この楽器がどういうものかは訳書に第2部第1章参照との注がありますので、当該箇所を見てみます。
「パドヴァのテオルボは使いやすいものであった。・・・調弦は古いリュートと同じもの、つまり、g, d, a, f, c, G, F, E, D, C, H(B), A, G, F, E, D※ である。今日では一般的には我々の現在のリュートのような新しい調絃をとっている」
※中川注)いわゆるgチューニング。H(B)以下には下線が付く。原典にも下線あり。
このパドヴァのテオルボは「長さ(大きさ)5シュー(約150cm)で、指盤上に8コースが複弦で乗っている」楽器です。( )内は中川注です。私が持っているマテオ・セラスのリウト・アティオルバートが約118cm(弦長65cm/90cm)、フレンチ・テオルボが約138cm(75cm/117cm)です。私のフレンチテオルボ規模の大きさで、もう少し大きい楽器ということになります。
そういった楽器を「我々の現在のリュートのような新しい調弦」すなわちいわゆるニ短調調弦(f, d, a, f, d, A, ...)にしていたということですが、弦長75cm超の楽器にfの音で1コースが張れるものでしょうか。私の体験的には70cmのバロック・リュートの1コースでぎりぎりで、75cm超では張れるような細い弦はないと思います。
原文ではこのあたりは結構微妙な言い回しをしています。
「我々の現在のリュートのような新しい調弦」の(原文)=die neueLauten=Stimmung, die unsre je(t)zige Laute noch hat
ここで気になるのが noch という言葉が気になります。「現在のリュート」の調弦そのまんまをパドヴァのテオルボにしているのではなく、何か少し変えた調弦であったような感じを受けます。訳文も「のような」をつけているのはそのあたりを意識をした訳文ではないかと思われます。では具体的に「のような」を示す文献はないのでしょうか。