(ウサギ。ウィキペディアより引用。)
イヌもネコもウサギもみな四つ足である。幼児はこれらをみな「ニャンコ」と呼ぶ。
そこに「イヌ」「ネコ」「ウサギ」という単語が入ってきて初めて、これらは区別されるようになる。本稿で言いたいのは「現実の分類に先立って、言語による分類がある」ということで、その逆ではないという点である。
たとえば「心身」といい「こころとからだ」という。この場合、実際の「心」や「身」が、あらがじめ存在しているわけではない。言葉のほうが先にあったのだ。「心身」を分けたのは現実ではなく、まず言葉だった。
したがって「心身問題」を「心」の側から研究しようが「身」の側から研究しようが、それらは恣意的であり、あらかじめ「心」と「身」が分けられて存在していたのでは決してない。「心身」を分けたのは人間の勝手に過ぎないのである。
※今日の狂歌
その犬はボロ布めきて痩せこけて餓鬼のごとくに菓子パン食らう
中里ひとし(愛知県)
実は11月5日に意識混濁となり(肝性脳症)2日間入院していま自宅に戻ったところです。
私はピアーウオーフの仮説というのを知りません。
ブログを書くのは意外とエネルギーが要るものです。
学兄の鮮やかな切り口の(しばしば辛辣な)エセーを読むのは非常な楽しみですが、しばらくは養生優先に願います。「へんちき」ロスは嫌ですから。
サピア-=ウォーフの仮説Sapir-Whorf hypothesisは言語学上の仮説で、私流におおざっぱにいえば、ことばが認識を枠づける(スキームになる)ということです。認識を表す概念が創りだされるのではなく、ことばに沿った概念が認識を方向づける(あるいは決定する)ということです。もっとも、ことば(記号)に付着する概念は認識からフィードバックされる面もあるのではないかというのが、日頃、法解釈について悩んでいる私のささやかな疑問です。
言語学者はとっくに同じようなことを言っているのですね。
(同期会は出席の予定です。その日だけは意識混濁にならぬよう、いまから祈っています。まえぶれがゼロなので。)