(1)大根の葉が川をさっと流れていく
と言うよりも・・
(2)流れゆく大根の葉の速さかな 虚子
と言った方が、事実を的確に表していてピンとくる。
これが「定型の力」である。575という枠内で語ると、事実がより事実らしく生き生きとしてくる。なのに、自由律俳句は(2)をわざと(1)のように言って、「定型の力」の利用を放棄している。
自由律俳句は従来の定型をあえて壊して、または放棄して、何かを訴えようとしている。つまり、自由律俳句が自己主張できるためには、前もって定型俳句が存在していなくてはならない。定型と自由律は同格ではなく、定型があっての自由律である。だが、あえて定型を壊すという行為は、冒険というよりも不健康だと私には思える。
実際、尾崎放哉や種田山頭火は生き方そのものが不健康だった。その不健康さを崇高なものと見なしたり賛美する風潮に、私は疑問を感じる。
「定型の力」は素直に利用するがよい。「形式」や「約束事」をわざわざ壊して、表現の幅を縮める必要があるのだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/c0/63181e56f02d4bc4e655a4eb25df5a1d.jpg)
上のような雑誌の特集は、破滅を称揚する人々の心性に媚びた企画だと、私は思う。なんというか不幸ではない人たちの「怖いもの見たさ」に乗じているような感じがするのだ。
(俳句に馴染みのない方には、何を言っているのか理解できないだろう。今回はお許し願いたい。だが、少しでも俳句に造詣がある方には、一撃で分かるはずである。)
と言うよりも・・
(2)流れゆく大根の葉の速さかな 虚子
と言った方が、事実を的確に表していてピンとくる。
これが「定型の力」である。575という枠内で語ると、事実がより事実らしく生き生きとしてくる。なのに、自由律俳句は(2)をわざと(1)のように言って、「定型の力」の利用を放棄している。
自由律俳句は従来の定型をあえて壊して、または放棄して、何かを訴えようとしている。つまり、自由律俳句が自己主張できるためには、前もって定型俳句が存在していなくてはならない。定型と自由律は同格ではなく、定型があっての自由律である。だが、あえて定型を壊すという行為は、冒険というよりも不健康だと私には思える。
実際、尾崎放哉や種田山頭火は生き方そのものが不健康だった。その不健康さを崇高なものと見なしたり賛美する風潮に、私は疑問を感じる。
「定型の力」は素直に利用するがよい。「形式」や「約束事」をわざわざ壊して、表現の幅を縮める必要があるのだろうか?
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/71/c0/63181e56f02d4bc4e655a4eb25df5a1d.jpg)
上のような雑誌の特集は、破滅を称揚する人々の心性に媚びた企画だと、私は思う。なんというか不幸ではない人たちの「怖いもの見たさ」に乗じているような感じがするのだ。
(俳句に馴染みのない方には、何を言っているのか理解できないだろう。今回はお許し願いたい。だが、少しでも俳句に造詣がある方には、一撃で分かるはずである。)
たとえば、自由詩にも何の制約もありません。
しかし、自由詩が不健康だという話は聞いたことがありません。
もっとも、「種田山頭火を持ちあげるのは不健康」というのは理解できます。
あまのじゃく、「逆張り」だとも思いますが、私個人はそのことも含めて、一種の必要悪だと考える立場です。
この記事では、わざと極端に「自由律俳句はけしからん」と言っていますが、本当は自由律そのものをけしからんと思っているわけではありません。ただ、自由律を信奉する人々の中に、ほとんど根拠なしに「定型は古い」という人たちがいるのが、うっとうしいんです。で、彼らの拠って立つところに山頭火、放哉がいるので、まず大本から批判してみました。
詩については、高校時代から一生懸命理解しようとしてきましたが、ダメでした。良さが分からないんです。高校時代に中原中也の詩集を買いましたが理解できず、最近では中井久夫訳の「若きパルク」(ヴァレリー)を読みましたが、呪文を読んでいるようでした。中井氏が「声に出すとよい」と言われるので、やってみましたが何の効果もありませんでした。中井氏の時代、リルケとかヴァレリーかとが当時の文学青年を熱狂せしめたという理由が分かりません。
SFについては、科学に対する夢の持ち方が昔と違ってきているので、SF名乗るとかえって売れないのでしょう。
日本で時代劇が激減したのは、おっしゃるとおり費用がかかりすぎるということもありましょうけれども、講談本の衰退も一因でしょう。私より以前の(漫画がない時代の)少年たちは立川文庫というシリーズで剣豪ものなどを読んでいたそうです。