私が小学校2年生のころ、「鉄人28号」や「鉄腕アトム」がリアルタイムで漫画雑誌に載っていた。
なかに「ひまわりさん」という読切りの少女漫画があった。「ひまわりさん」という女の子が町を花でいっぱいにしようと考え、ひまわりの種を町のいたるところに撒くのだ。
(とうじ東京はまだ土がむき出しで、舗装された部分は中心部だけだった。馬車が通り、道には馬糞が落ちていた)。
心ない大人たちは「あの子は、ばい菌を撒いている」と噂した。それでも「ひまわりさん」はめげなかった。
そして、花の時期になったら、町じゅうはひまわりでいっぱいになった。「ひまわりさん」の努力はやっと報われたのだ。
戦隊モノや正義の味方モノが好きだった私が、なぜ「ひまわりさん」だけを感動的に覚えてえているのか、不思議というほかはない。
※私の俳句(夏)
水貝をブルーライトに肴とす
(1)
私は四歳から八歳までの五年間を文京区の小石川植物園周辺で過ごしました。昭和28年(1953)から32年(1957)のことです。幼稚園入園直前の年から小学校二年まで。
(2)
大都会のど真ん中でしたが、住宅の庭には、かぶと虫、かみきり虫、しじみ蝶、あげは蝶、糸トンボ、鬼ヤンマ、銀ヤンマなどが植物園の森からどんどんやってきて、自宅にいるだけで小学校の夏の宿題のテーマの自然観察をすることができました。
敗戦から八年も経っていましたから、焼夷弾が雨あられと降り注いだ文京区にあっても、戦災の爪痕はなかったのですが、都市インフラはお粗末なものでした。
中里さんもお書きになっていますが、山手線の内側の文京区に於いてさえ、大通り(不忍通り)から一歩中にはいると、土道で、糞尿桶をタップンタップンさせながら汚穢屋の大八車がよく通っていました。牛馬が牽引していたので、通過後には「落とし物」がたくさん。人糞を都市近郊農業でまだ多用していた時代だったのです。
(3)
講談社系の光文社から雑誌「少年」が創刊されたのが昭和21年(1946)のこと。「少年探偵団」で評判を呼び、六年後の昭和27年(1952)には手塚治虫『鉄腕アトム』が連載開始。我々が小学校に入学すると、『鉄人28号』『矢車剣之助』が登場。ついに「少年」はその発行部数で「少年画報」「冒険王」を追い抜き、ナンバーワンの地位を獲得します。
私は、小学校二年の夏休みに文京区から中野区に転居しましたが、「少年」を定期購読し始めたのが、この中野時代。中里さんの記憶とも一致します。『鉄腕アトム』を筆頭に、『鉄人28号』『矢車剣之助』の連載は毎月の楽しみのひとつでした。
(4)
書き言葉の成長する大切な小学校時代でしたが、前半の三年間は、大量の漢字の習得が始まっていましたが、まだ文庫本の小説を読みまくるには精神年齢的に時期尚早でしたから、漫画の吹き出しの中の文字を追う作業は、言葉の成長に大きな影響を与えました。
そうそう、矢車剣乃介も面白かったですね。
ルビで漢字を覚えたこともありました。懐かしいですね。
またコメントお願いいたします。