(小豆島の千枚田。OLIVE STATION より引用。)
「パチスロ」で「フィーバー」をねらって何時間も黙々とパチンコ玉を打っている人を、「目的に向かって努力している」と言えるだろうか?
釣り人は気長である。なかなか釣れなくても辛抱する。きょう釣れなくても次回に期待する。釣り人の大物ねらいと、パチスロのフィーバーねらいは似ている。いずれも「努力」の色彩がないからである。
レジャーとしての釣り人気の記事 (2013-12-03) にも書いたが、釣りは生物としての人間の本能にマッチしているのだろう、そこには「悲壮感」はおろか「努力感」さえも感じられない。
それに引き替え写真の千枚田からは、「よくまあここまで努力したなぁ」という印象をまず受ける。悲壮感すら感じられる。
この欄で何度も述べてきたことだが、釣りという狩猟文化は本来的に人間に適合している。他方、農耕文化には無理がある。だから「努力」という苦痛を人間にしいる。つまり、「努力」とは農耕が発明されてからの産物であり、もっと古代の狩猟採集の時代には「努力」という観念は存在しなかったのでないか?
※今日、気にとまった短歌
行楽の車幾台従えて田より上がりし田植機歩む (兵庫県)清水真矢