夜、庭を歩くと、くちなしの湿った甘い香が漂ってきました。今日の雨の夜、
ふと湿った空気をかいで見ると、くちなしの甘さにまぎれて凛とした匂いが
いそいそと漂ってきます。夜にまぎれて濃いピンクと黄色のオシロイバナが
咲き始めました。
:カレル・チャペック「平凡な人生」 成文社 飯島周訳 1997年
20章から始まる文章の加速と立ち止まりが、どうしようもないほど主人公の
心臓の激しい脈となって作品のなかでうちつづけている。それまでは表題どおりの、
内気ながり勉少年が成長して駅につとめ、物静かで献身的な奥さんをめとり、
駅長になり、妻を亡くし、一人園芸を共に生きてきた男性の生涯の半ばが
たんたんと、時に思い出したかのよう弾む鼓動のリズムに合わせて語られる。
ひとりの男性の回想記と言うことで、この一連の文章は全て彼の衰えた心臓の
脈拍のテンポに沿って描かれているのだ。
「ホルドゥバル」「流れ星」「平凡な人生」の三部作は、カレル・チャペックが
40歳頃に一作ずつ書き上げていった、晩年の一歩手前に近い作品だ。三部作とは
いえ、登場人物の誰も互いに関わりあうことなく、独立した小説のひとつずつとして
読むこともできてしまう。だが、三部作なのだと流れに乗っかると、それぞれが
一人の男の死、それに対する人のものの見方を、全く違った視点から描いている。
第一作「ホルドゥバル」は社会の規範から、第二作「流れ星」は、死者の死に際に
関わった彼の人生とは全く関連の無い第三者から見た彼を、本作では死に向かう
本人自身が自分の死に至る道を書くというかたちで、徐々に死の対象の内側へと
向かう思索がなされている。
主人公の男性は、自分の人生が平凡だったが故に、平凡な人生も偉大なる伝奇と
同様、書き記すべきだと筆を取った。己の人生をゆるやかに思い出しながら、
感傷的に進む筆がある日止まる。三週間後にもう一度筆を取ると、男はもう一度
平凡な人生と言うことそのものを考え始める。
『
わたしたちのそれぞれは、単数ではなく複数のわたしたちであり、
それぞれは群集で、目に見えぬかなたへ消えてゆく。
ただ自分自身を見てほしい、きみ、実際にきみはほとんど人類全体なのだ!
』
男が見つめなおしたのは、人生のそれぞれの場で起きた選択の数々だった。
選択をやりなおすことではなく、自分が選んだその時点が単純な一本の線ではなく、
自分自身と言うものが単一のものではないことに気づく。たくさんのものを
含む自分と、たくさんのものが投影される自分以外の絶対多数に気づいたとき、
男にとっての「平凡さ」ということがどんと語られる。
でも、チャペックは語り部である男ではなく、そこで最後に、彼の手書きを受け取った
医師と老紳士にスコープを戻した。ぽんと男の人生は放り出される。チャペックは
つくづくと舞台が上手いと思った。
ふと湿った空気をかいで見ると、くちなしの甘さにまぎれて凛とした匂いが
いそいそと漂ってきます。夜にまぎれて濃いピンクと黄色のオシロイバナが
咲き始めました。
:カレル・チャペック「平凡な人生」 成文社 飯島周訳 1997年
20章から始まる文章の加速と立ち止まりが、どうしようもないほど主人公の
心臓の激しい脈となって作品のなかでうちつづけている。それまでは表題どおりの、
内気ながり勉少年が成長して駅につとめ、物静かで献身的な奥さんをめとり、
駅長になり、妻を亡くし、一人園芸を共に生きてきた男性の生涯の半ばが
たんたんと、時に思い出したかのよう弾む鼓動のリズムに合わせて語られる。
ひとりの男性の回想記と言うことで、この一連の文章は全て彼の衰えた心臓の
脈拍のテンポに沿って描かれているのだ。
「ホルドゥバル」「流れ星」「平凡な人生」の三部作は、カレル・チャペックが
40歳頃に一作ずつ書き上げていった、晩年の一歩手前に近い作品だ。三部作とは
いえ、登場人物の誰も互いに関わりあうことなく、独立した小説のひとつずつとして
読むこともできてしまう。だが、三部作なのだと流れに乗っかると、それぞれが
一人の男の死、それに対する人のものの見方を、全く違った視点から描いている。
第一作「ホルドゥバル」は社会の規範から、第二作「流れ星」は、死者の死に際に
関わった彼の人生とは全く関連の無い第三者から見た彼を、本作では死に向かう
本人自身が自分の死に至る道を書くというかたちで、徐々に死の対象の内側へと
向かう思索がなされている。
主人公の男性は、自分の人生が平凡だったが故に、平凡な人生も偉大なる伝奇と
同様、書き記すべきだと筆を取った。己の人生をゆるやかに思い出しながら、
感傷的に進む筆がある日止まる。三週間後にもう一度筆を取ると、男はもう一度
平凡な人生と言うことそのものを考え始める。
『
わたしたちのそれぞれは、単数ではなく複数のわたしたちであり、
それぞれは群集で、目に見えぬかなたへ消えてゆく。
ただ自分自身を見てほしい、きみ、実際にきみはほとんど人類全体なのだ!
』
男が見つめなおしたのは、人生のそれぞれの場で起きた選択の数々だった。
選択をやりなおすことではなく、自分が選んだその時点が単純な一本の線ではなく、
自分自身と言うものが単一のものではないことに気づく。たくさんのものを
含む自分と、たくさんのものが投影される自分以外の絶対多数に気づいたとき、
男にとっての「平凡さ」ということがどんと語られる。
でも、チャペックは語り部である男ではなく、そこで最後に、彼の手書きを受け取った
医師と老紳士にスコープを戻した。ぽんと男の人生は放り出される。チャペックは
つくづくと舞台が上手いと思った。