えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

平凡のなかで

2010年07月05日 | 読書
夜、庭を歩くと、くちなしの湿った甘い香が漂ってきました。今日の雨の夜、
ふと湿った空気をかいで見ると、くちなしの甘さにまぎれて凛とした匂いが
いそいそと漂ってきます。夜にまぎれて濃いピンクと黄色のオシロイバナが
咲き始めました。

:カレル・チャペック「平凡な人生」 成文社 飯島周訳 1997年

20章から始まる文章の加速と立ち止まりが、どうしようもないほど主人公の
心臓の激しい脈となって作品のなかでうちつづけている。それまでは表題どおりの、
内気ながり勉少年が成長して駅につとめ、物静かで献身的な奥さんをめとり、
駅長になり、妻を亡くし、一人園芸を共に生きてきた男性の生涯の半ばが
たんたんと、時に思い出したかのよう弾む鼓動のリズムに合わせて語られる。
ひとりの男性の回想記と言うことで、この一連の文章は全て彼の衰えた心臓の
脈拍のテンポに沿って描かれているのだ。

「ホルドゥバル」「流れ星」「平凡な人生」の三部作は、カレル・チャペックが
40歳頃に一作ずつ書き上げていった、晩年の一歩手前に近い作品だ。三部作とは
いえ、登場人物の誰も互いに関わりあうことなく、独立した小説のひとつずつとして
読むこともできてしまう。だが、三部作なのだと流れに乗っかると、それぞれが
一人の男の死、それに対する人のものの見方を、全く違った視点から描いている。
第一作「ホルドゥバル」は社会の規範から、第二作「流れ星」は、死者の死に際に
関わった彼の人生とは全く関連の無い第三者から見た彼を、本作では死に向かう
本人自身が自分の死に至る道を書くというかたちで、徐々に死の対象の内側へと
向かう思索がなされている。

主人公の男性は、自分の人生が平凡だったが故に、平凡な人生も偉大なる伝奇と
同様、書き記すべきだと筆を取った。己の人生をゆるやかに思い出しながら、
感傷的に進む筆がある日止まる。三週間後にもう一度筆を取ると、男はもう一度
平凡な人生と言うことそのものを考え始める。


 わたしたちのそれぞれは、単数ではなく複数のわたしたちであり、
 それぞれは群集で、目に見えぬかなたへ消えてゆく。
 ただ自分自身を見てほしい、きみ、実際にきみはほとんど人類全体なのだ!



男が見つめなおしたのは、人生のそれぞれの場で起きた選択の数々だった。
選択をやりなおすことではなく、自分が選んだその時点が単純な一本の線ではなく、
自分自身と言うものが単一のものではないことに気づく。たくさんのものを
含む自分と、たくさんのものが投影される自分以外の絶対多数に気づいたとき、
男にとっての「平凡さ」ということがどんと語られる。

でも、チャペックは語り部である男ではなく、そこで最後に、彼の手書きを受け取った
医師と老紳士にスコープを戻した。ぽんと男の人生は放り出される。チャペックは
つくづくと舞台が上手いと思った。
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集める最中

2010年06月23日 | 読書
gooの場合、ジャンル「本」だとレビュー扱いになってしまうのですが
今日はレビューじゃない、と言っても、大分レビューじゃないのもあるか。
気にしないで続けます。

一年の間に、はまる作家をわーっと集めようとする悪い癖があるのですが、
最近心惹かれているのは武部利男(1925~1981)さんと瀬田貞二(1916~1979)さんです。
瀬田貞二さんは「ナルニア国物語」を始め、多くの児童文学を日本に紹介した翻訳者、
武部利男さんは「李白」など、多くの中国文学の研究に携わった中国文学者です。
ていねいな文章と簡潔な言葉遣いにもかかわらず、日本語の持つ柔さにおぼれない、
芯のあるものを書き上げる筆力を持つ人たちだと思います。
武部利男さんの穏やかで飄逸な日本語、瀬田貞二さんの見事な組み合わせの日本語、
どちらもどこか自分の性分が含まれた、私の好きな日本語です。

武部利男さんはともあれ、瀬田貞二さんの本はなやみます。まず図書館へ行って
かき集めるのが先決か、買ってしまおうか。
絵本を綺麗に保存して上げられる空間は私の部屋に無いので、悩みどころといえど
せいぜいがたかの知れたものなのですが、瀬田貞二さんの日本語は枕頭におきたい
骨格と品の備わった貴公子のようなことばづかいなので、やっぱり「ナルニア」
以外の何かを置いておきたいなあと煩悶しています。


それから、武部利男さんは何冊「李白」のタイトルつけたものを書いたのだろう。
そして何故あの翻訳は「白楽天」でなければならなかったのでしょうか。

ふしぎな日本語使いたちです。
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喋る馬の風景

2010年06月17日 | 読書
問 う な !

:喋る馬 バーナード・マラマッド 柴田元幸訳 スイッチ・パブリッシング

馬は外に向けて問いかけること、誰かに問いを受け止めてもらうことが禁じられていた。
自分に問いかけるしかなかった馬は、喋る馬だという以外のもの、喋っている馬として
喋っている何かをうっかりと見つけてしまう。深く自分にもぐった問いかけを続けて、
どんな槍が降ってきていても問いかけをやめず、痛くてもつらくても悲しくても、
馬は自分に向かって問いかけを投げ続けた。それは本質を確認するための問いだった。
唖の動物使いは答えないが応えている。馬の問いかけは受け入れられないが、確実な
答えに向かって進むよう動物使いの一挙一動が馬の問いかけを先へと導いている。

マラマッドは、誰かがことばを発すること、ということをとても細心に扱っている。
馬のことば、狂人のことば、言語をなくした人のことば、ふつうの家のことば、
どれもひと言ひと言が、よく描きこまれた風景画のように、ことばを放つ顔の首の
曲がり具合までがはまっている。
それでいて話をことばのためだけにつなぐことをしない。だからことばの組み合わせの
妙に気持ちを昂ぶらせていると話の筋に置き去りにされてしまう。
むしろ、ことばを最後まで言わせまい、ことばの深いところまで行かないけじめを話で
しっかりとつけている。どの話も(この本は短編集だ)、必ず最後にひとつの落しどころが
与えられている。作者による読者へのちょっとしたサービスなのかもしれない。

たとえばカレル・チャペックの「受難像」連作のように、登場人物のことば自体が
哲学的な構想と思考にあふれていて、互いのことばは見事な話し合いを演じていたり、
あるいは一人の思考を丁寧にていねいに書きつくすことで問いかけを与えているものは
ある種眺めていて安心するものがある。話にほうっておかれてもことばに埋もれて
安心ができるからだ。詳細に考えれば考えるほど、話の筋までかっちりとした理論で
解き明かすことができそうになり、もはや読む楽しみと言うよりは思索の一環に
過ぎなくなってしまう。

「喋る馬」はそうした問いかけだらけの本のはずなのだが、終わりはいつも整然と
片付けられている。ただしその分、すっきりと片付いた話の中に残るわだかまりは
溶かし忘れたインスタントのコーンスープのように濃い。


それでも黙っていた馬はみんなの前で大きく口を開いた。鞭打たれてもまた口を開いた。
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捜索中@かつまたすすむ

2010年06月06日 | 読書
とりあえず、手元に入れられそうな物を探しています。
まずは単行本からとはいえ、古本屋のオヤジの話では、かれの漫画を発行している
出版社のほとんどが小さくて、倒産していることがほとんどらしいので、冊数が
少ないとかなんとか。

とはいえ、アマゾンさんからそのうち「赤い雪」が一冊手元に届く予定ですが、
すでに購入した二冊に収録されている作品がほとんどで、また別の本を探しにゆこうと
たくらんでおります。

紙芝居や童話の挿絵も多く画いている、というか寧ろ、絵の描き場が「マンガ」に
限られない、漫画家と言うよりは、滝平次郎のようにきまった美人の型をもった、
絵師と言う言い方のそぐう筆先の持ち主だと思います。勝又進と言う人は。

さっぱり垢抜けるということが、今のところ見えないのですが、現代を主な舞台にした
四コマと短編集を見比べていると、元々日本が着ていたものの丸み自体に、線として
色っぽくやわらかな肉感があって、作者は単にその線だけを自分の筆で絵にしたような、
肩肘凝らない絵がつくづくと落ち着きます。
それが淡白と見られ勝ちなのかも知れないですが。
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勝又進という漫画家

2010年06月02日 | 読書
古い漫画が好きだなんて言って、この人をまったく知らなかったということに
「スイマセンデシタ!」という気分です。

たてつづけに買う漫画集、一つを開けばまた一つと、同じ線のはずなのに
まったく違う表情、しっとりとした姿を描けるいっぽうで、線を減らして
気の抜けた四コマ漫画やおいろけナンセンスをさらっと描いてみせながら、
どの作品にも透徹している「かつまたすすむ」という人がわからない。
それこそ本人えがく、目のまんまるでひょうひょうとした狸のように、
いたずらっぽいが温かい表情の線なのです。

雑誌「ガロ」にいた他の作家よりもクセの少ない素直な、ある意味で単純な
線なのですが、単行本『木菟講談』の南伸坊の解説に


 勝又さんのマンガには、ごく時折、ひどく美しいシーンが、
 唐突に挿入されていて、たとえば四コママンガのオイロケ話の中にも、
 それは登場する。


とあるように、コマひとつだけではっと吸い寄せるような力があるのは確か。
「木菟講談」の裏表紙の三日月にとまるみみずくの、頭だけねむたげな狸のものと
すげかえたへんな生き物の、かったるそうな表情だけでもとてつもないなあと
魅力に混乱し続けっぱなしです。
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子規つづり:文からたどるもの

2010年04月30日 | 読書
 随筆ほど読みづらいものはない。

 随筆から人を読むことは至難の業だ。それは、そのときの書き手の心にもっとも寄るものを描いているゆえに、そのときが正直に出されていればいるほど、かえって作家の心からは遠ざかるものだからだ。何かまったく別のもの、小説だったり論考だったり思想だったりの方がわかりやすい。思いを凝らさず、頭をひねって組み立てていったものの隙間に、作品とはまったく関係の無い作家そのものが置き忘れてあることが、こうしたものにはままあるのだ。随筆には置忘れがない、というか、この置き忘れそのものをいかに書くか、ということが、随筆の元となっている。正岡子規は、置き忘れを忌むかのように物を書き尽くしていった人だ。

 明治三十五年の九月「病床六尺」の一本が載った二日後に逝った。一日たった数行でも書き続けた。視点の幅広さがかえって布団の狭さ、もっと資料を尽くし語ることを尽くし書きたかったろうことがぽろぽろとはみ出して、将来なりたいものを聞かれた子供のように弾んだ勢いがある。正岡子規の文は、ことば自体が木版のように刻まれている。そこには、そこに書かれている以上のことばがこっそりと割り込む余地もなく、動かす余裕もなかったのだろうが、動かすことは出来やしないのだ。水気が抜けた木材のように硬く軽い筆致に熱情はなく、たとえそれが病でのたうつ様を描いていたとしても、どこかさらっと乾いていて、余計な情は省かれている。だからこそ、文の合間に見える子規はいず、文そのものに正岡子規はいる。上気した頬の柳宗悦を見ていると、余計にそう思った。
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こわい書評

2010年04月20日 | 読書
二万五千冊の文字に惹かれてクリックした記事の、インタビューに答えている人の経歴に
ブログで書評をやっている、しかも書評がしごく有名で、出版社からも献本が多数、
ともあれ、書評と言うジャンルですごいことをやってるよーという人がいたのでちょっと
拝見してみた。

そんなに怖くはないなあ、と思った。

もちろん、読む量だって頭の回転だって半端ない人なのだ。一日に十冊は読むと言う。
文章の読み方も趣旨のとらえかたが上手いなあと思う。毎日のようにすじの通った文章を
書いている。回転が速い能力のすぐれた人だなあと思う。
ただ、一文を読む限りでは、自分がほんとうに好きで好きでたまらなく、しかも価値を
深く感じたものを感じたままに書くといった、決め球のような本はWebの書評で
見つけられなかったというか埋もれてしまって見つけるのに技術がいるというか。
ひとつの書評として文章として、読み応えがあってごちそうさまでした、という気分に
なるものはどこにもなかった。とどのつまりこの人にとって読書と書評は処理のひとつに
過ぎないのだろう。

だから狐さんの書評は怖い。怖くてなかなか読めない。文の端々まで気遣いのいきとどいた
洗練された文なのに、まったくくどくは無い。紹介する本も、埋もれだしたものを発掘した
泥臭さを見せびらかすような俗っぽさなんかなくて、新しい発見の喜びを一途に伝えて
くる選び方がなされている。何より読まれた本が狐さんの中にすべて残っている。読むほう
も、それがわかるから、狐さんの書評を読むと本を開きたくなるのだ。読むことと書くこと
が臓腑にしみわたっている人の書評は、どれを紐解いてもたった二ページの前にひれふした
くなる。というかひれふしている。

「書評を書こうとおもうと、感想文になってしまう」と言われたけれど、感想文でかまわな
いと思う。評なんてそうそうできない。格好つけて本の体裁を書いても、読んだ自分が意外
なほどに本に思い入れがないことがわかるばかりで、書くことをつなげることなんてできな
い。だから感想文だってかまわない。自分が思ったこと感じたことを書いて、本をどんどん
自分の血肉にしてゆけばいい。
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史記つづり

2010年04月13日 | 読書
:史記世家 全三巻
:史記列伝 1~2 岩波文庫 小川環樹・今鷹真・福島吉彦訳

ここまで読んでからしまった!と思ったのは、岩波文庫版では「本紀」が出ていないので
王朝の流れや事件の流れが非常に断片的になってしまったことです。
いわずと知れた司馬遷によって、BC91年武帝のころ書かれた「史記」は、中国で初めて
紀伝体のスタイルをとった歴史書でした。
全ての出来事を年代別に記してゆく編年体の「春秋」がそれまでのスタンダードだったの
ですが、司馬遷はあえて個々の国や人間にスポットをあて、書き連ねてゆく紀伝体を選び
ました。そのおかげで、うっかりすると年代に埋もれてしまいそうな人、国、そうした
ものの誕生から終わりまでを私たちは濃密に読むことが出来るのです。

紀伝体はいくつかの章に分かれています。まず「本紀」があり、天文・歴史・作法などを
つづった「書」、そして「世家」「列伝」。他にもあるかもしれませんがまずはこれまで。
細かいところを知るには全て読むに限りますが、大本を押さえるには「本紀」に限ります。
なぜか。
それは、「本紀」には天下を治めた王朝の歴史が描かれるからです。
何より、天下を治めた天下人たちの伝奇がここにあるからです。武王、始皇帝、項羽、劉邦、
バトンを引き継ぐように変わる国と人の伝統の根幹は「本紀」に詰まっています。
まずは是を読まなくては始まらないのですが、それでも「列伝」に惹かれるのは司馬遷の筆致です。

彼の筆致は、列伝になると俄然精気を帯びます。
たとえば、第26巻の刺客列伝の、始皇帝を暗殺しようとした荊カ(くるまへん+可)が
暗殺に失敗し、兵に取り囲まれたときを司馬選はこう描きます。

「……荊カは成功できぬとさとり、柱によりかかってからからと笑い、両足をなげだして
 どっかとすわり、吐き捨てるように言った。」

原文は未読ですが、読点の打ち方にわずかながらリズムが残っていると思います。きっと
馬を走らせるように筆をたたきつけながら書き上げたのでしょう、動脈を切ったような
勢いほとばしる筆致です。
ただ出来事を描くだけならば、くやしがったり、笑ったりする描写はいりません。
竹の板を重ねることになっても、これだけの人の動きを司馬選は書きました。
「離騒」で知られる詩の名手屈原が、讒言にあい王の機嫌に触れ、僻地に流された時も
司馬遷の筆には墨以外の何かがのっています。

「屈原は長江の岸辺に来た。髪をふりみだして沼沢地をあるきつつ苦しみの声をもらし、
 顔色はやつれ、すがたも枯れたようになっていた。」

「髪をふりみだして」や「苦しみの声」、「あるきつつ」。諫言がききいれられず、
世の中、人を諦めきった屈原の気が狂いそうな悲しみと苦しみを、司馬遷はたしかに
感じ取っています。自身も讒言を受け、死刑とひきかえの宮刑――男性としての機能を
失う刑――の屈辱を舐めても「史記」を完成させるために生きている身と引き比べて
いる。だからこそか、司馬遷は成功してつつがなく生涯を送った人よりも、正義を貫こうと
世に問いかけて去っていった人々の苦しみを描く時に筆が冴えてゆくのかもしれません。

でも、単に自分の苦しみを文にこめるだけではひとりよがりです。司馬遷の文は、資料の
深い読解に裏打ちされているものだからこそ、さらりと描く苦しみが引き立つのだと
思います。
どういう経緯で、かれはこんな行動を取ったのか。どんなことばが、王にどう受け取られたのか、
歴史書としてこそ書き残しませんでしたが、司馬遷の描く人物の動き方や台詞回しは
そんな思考の積み重ねの一部に過ぎないのでしょう。

この辺、「漢書」と読み比べてみたいところです。

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:「AGHARTA」1~8 松本嵩春 

2010年04月06日 | 読書
ぴんとくる漫画や本が来なくてちょっと迷い中です。


:時々こういう漫画がある。
中身を読み込もうとしても、するっと絵が流れていってしまって、何か言いたげなのだが、
その実、何を語りたいかすら流されてしまっているようなものがある。
現在もヤングジャンプで連載の続く「AGHARTA」はややこしい。

どこかの未来のような都市を舞台に、純水がなければ生きられない繊細さと、
両手両足を鎖でつながれながらも大の大人をあっさり片付ける強靭さを併せ持つ少女
RAEL(リエル)と、暴走を続ける彼女の心の支えとなる少年ジュジュ。
少女と少年のつながりを軸に進む話は、織り込まれる要素の多さが絵もことばにも
組み込まれすぎて、巻を進めるごとに新しい話が出てくる。混乱するのは、伏線の
回収がその間殆どなされていないせいだろう。

読み勧められるほど話が極端に魅力的かというとそうでもないが、
絵に溢れる空疎な雰囲気と危うさが独特の引力を持っている。そこまでなのだが。
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:「ナンセンスギャグ漫画集 珍・妙の巻」 諸星大二郎

2010年03月11日 | 読書
吉田日出子の歌に酔っている間、「なおざりダンジョン」(こやま基夫)の新刊と
諸星大二郎の新刊が同時に出るとは思わなかったです。
しかも今回はナンセンスものに絞った選集で。
今回は雑誌が見つからなくて読めなかったり(「蒼ざめた機械」「星に願いを」など)、
別の本に掲載されている都合(「猫本」「猫本2」とか)でばらばらに収録されていた
昨今のまんがを一冊に収録した作品です。もちろん、昨年3月に雑誌「ユリイカ」にて収録
された雑誌投稿初受賞作「硬貨を入れてからボタンを押してください」も写植を貼られてば
っちり収録されています。

今回の収録は70年代から80年代にかけて集中的に描かれたものを中心にナンセンスのひとく
くりをされていますが、だいたいのお話の「のり」というか、諸星大二郎という漫画家の
特徴的な濃い線がコミカルなタッチで抑えられている分、プロットの作り方に集中して
読むことができるという点が特徴です。たとえば「妙」に収録されている「禍れんだあ!」
という短編では、カレンダーといっしょにうっかり壁紙まではがしてしまい、モノが雪崩れて
すっかりぐちゃぐちゃになったところで心配した下宿の人々が押しかけてくる。
カレンダーをはがしそこねたと言いかねてウソをついてしまう主人公だが、そのウソが
現実になってしまい…と文章にすると味気ないのですが、諸星大二郎はいともあっさりと
ぐちゃぐちゃになった部屋と下宿とトラブルをひとまとめにして7ページに納めています。

以前、「栞と紙魚子」がドラマになった際の本人のインタビューに、のほほんとした
自侭なテンポで答えていた口調そのままを漫画にしたような、知らん顔で人を食ったような
間の外し方が多くの漫画のオチにあらわれているのです。
おーざっぱにオチをつけたのだろうなーという作品もなきにしもあらずなのですが、
そこはまたご愛嬌。というかご愛嬌が7割。いいんです、読めれば。

次はSFか「幽」の選集が出てくれると嬉しいです。
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