二万五千冊の文字に惹かれてクリックした記事の、インタビューに答えている人の経歴に
ブログで書評をやっている、しかも書評がしごく有名で、出版社からも献本が多数、
ともあれ、書評と言うジャンルですごいことをやってるよーという人がいたのでちょっと
拝見してみた。
そんなに怖くはないなあ、と思った。
もちろん、読む量だって頭の回転だって半端ない人なのだ。一日に十冊は読むと言う。
文章の読み方も趣旨のとらえかたが上手いなあと思う。毎日のようにすじの通った文章を
書いている。回転が速い能力のすぐれた人だなあと思う。
ただ、一文を読む限りでは、自分がほんとうに好きで好きでたまらなく、しかも価値を
深く感じたものを感じたままに書くといった、決め球のような本はWebの書評で
見つけられなかったというか埋もれてしまって見つけるのに技術がいるというか。
ひとつの書評として文章として、読み応えがあってごちそうさまでした、という気分に
なるものはどこにもなかった。とどのつまりこの人にとって読書と書評は処理のひとつに
過ぎないのだろう。
だから狐さんの書評は怖い。怖くてなかなか読めない。文の端々まで気遣いのいきとどいた
洗練された文なのに、まったくくどくは無い。紹介する本も、埋もれだしたものを発掘した
泥臭さを見せびらかすような俗っぽさなんかなくて、新しい発見の喜びを一途に伝えて
くる選び方がなされている。何より読まれた本が狐さんの中にすべて残っている。読むほう
も、それがわかるから、狐さんの書評を読むと本を開きたくなるのだ。読むことと書くこと
が臓腑にしみわたっている人の書評は、どれを紐解いてもたった二ページの前にひれふした
くなる。というかひれふしている。
「書評を書こうとおもうと、感想文になってしまう」と言われたけれど、感想文でかまわな
いと思う。評なんてそうそうできない。格好つけて本の体裁を書いても、読んだ自分が意外
なほどに本に思い入れがないことがわかるばかりで、書くことをつなげることなんてできな
い。だから感想文だってかまわない。自分が思ったこと感じたことを書いて、本をどんどん
自分の血肉にしてゆけばいい。
ブログで書評をやっている、しかも書評がしごく有名で、出版社からも献本が多数、
ともあれ、書評と言うジャンルですごいことをやってるよーという人がいたのでちょっと
拝見してみた。
そんなに怖くはないなあ、と思った。
もちろん、読む量だって頭の回転だって半端ない人なのだ。一日に十冊は読むと言う。
文章の読み方も趣旨のとらえかたが上手いなあと思う。毎日のようにすじの通った文章を
書いている。回転が速い能力のすぐれた人だなあと思う。
ただ、一文を読む限りでは、自分がほんとうに好きで好きでたまらなく、しかも価値を
深く感じたものを感じたままに書くといった、決め球のような本はWebの書評で
見つけられなかったというか埋もれてしまって見つけるのに技術がいるというか。
ひとつの書評として文章として、読み応えがあってごちそうさまでした、という気分に
なるものはどこにもなかった。とどのつまりこの人にとって読書と書評は処理のひとつに
過ぎないのだろう。
だから狐さんの書評は怖い。怖くてなかなか読めない。文の端々まで気遣いのいきとどいた
洗練された文なのに、まったくくどくは無い。紹介する本も、埋もれだしたものを発掘した
泥臭さを見せびらかすような俗っぽさなんかなくて、新しい発見の喜びを一途に伝えて
くる選び方がなされている。何より読まれた本が狐さんの中にすべて残っている。読むほう
も、それがわかるから、狐さんの書評を読むと本を開きたくなるのだ。読むことと書くこと
が臓腑にしみわたっている人の書評は、どれを紐解いてもたった二ページの前にひれふした
くなる。というかひれふしている。
「書評を書こうとおもうと、感想文になってしまう」と言われたけれど、感想文でかまわな
いと思う。評なんてそうそうできない。格好つけて本の体裁を書いても、読んだ自分が意外
なほどに本に思い入れがないことがわかるばかりで、書くことをつなげることなんてできな
い。だから感想文だってかまわない。自分が思ったこと感じたことを書いて、本をどんどん
自分の血肉にしてゆけばいい。