ああそういえば「よかったということを見つける」と言っていたなと書きながら
思い出しました。今日は心の構え方を教えてくれる講演を聴く機会がありました。
そこで演壇に立ったグレーのスーツの女の人が、ちょっと外国人のようにところどころ
ひっかかる独特の発音で、男の人にはまねできない丸みを帯びた声音が落とし込むように
何度も何度もそうおっしゃっているのをぼんやりと聞いていました。
どうしてもテクニカルな話になりがちなのですが、やっぱりテクニックか、とも
つっけんどんにいえないのは、そうした一つ一つの話を講師の方はきちんと体験から
導き出していて、自ら悩んだ末に導き出していった行為であり方法なのですから、
裏づけのあるテクニックなのですね。心から同じ悩みを持つ人々のためにこの人は
説いてまわっている。ただ最後に「何を説いていたのか」と考えると、それがあっさりと
具体的な行為で表されてしまうそれだけなのが、妙に腑に落ちないのです。
よく考えてみれば、「よかったことを見つける」のには、自分の行為と向き合って一人
黙考することが求められます。これはりっぱな反省です。よくよく振り返る覚悟がないと、
毎日なんてとても続けられません。省みること自体はまったく腑に落ちることなのですが、
どうも妙だなあと感じるのは省みたあとの心の行き先なのです。
「よかったことを見つけ」ます。そこで現れるのは起きたことを喜ぶ心です。喜ぶとは
どういうことでしょうか。自分にとって好ましいと思うことで、物事を受け止めやすく
することでしょうか。うれしい、と思うだけなのでしょうか。日々是好日、とさらりと
言ってしまってよいのでしょうか。ここまで言うともう一歩踏み出せないでしょうか。
手を合わせて、「ありがたや」のひとことです。ここがひそかな背景にあるのでは
ないかと思うのです。感謝の情。ただその感謝を誰に向ければよいものか、それを
はっきりと示してやらない点――むしろ「自分」なのかもしれないですが――、同じく
省みることを求める説教とは異なるのではないかと思います。
柳宗悦の「妙好人評論集」をひもとけばこの言葉が身体になったような人ばかりが
現れてきます。南無阿弥陀仏の六字を唱える。心ゆたかに仏さまの教えを味わっている。
教えに埋没することなく、自ら省みることを常に覚えながら、罪深い自分をすら
みつめて拾い上げてくれる手があることを感謝して生きている。暮しそのものを受け止める
暖かいが真摯な姿勢、手を合わせて目を閉じて、背中を丸めてお題目を唱える沈黙が
私は好きです。
そうした受けとめ先を抜きに、まず省みることを示す「よかったことを見つける」講師の
ことばは面白いなあと思います。今の語り部は仕事の中から生まれてくることが面白い。
だれが語ろうと、行き着く先は、そこに仏がいようといまいと、同じなのではないでしょう
か。どんなことばでも巡って自分の中にいるのならば、そこに自分がいようと誰がいよう
と、日々を善しとして暮らしてゆければなにより。
思い出しました。今日は心の構え方を教えてくれる講演を聴く機会がありました。
そこで演壇に立ったグレーのスーツの女の人が、ちょっと外国人のようにところどころ
ひっかかる独特の発音で、男の人にはまねできない丸みを帯びた声音が落とし込むように
何度も何度もそうおっしゃっているのをぼんやりと聞いていました。
どうしてもテクニカルな話になりがちなのですが、やっぱりテクニックか、とも
つっけんどんにいえないのは、そうした一つ一つの話を講師の方はきちんと体験から
導き出していて、自ら悩んだ末に導き出していった行為であり方法なのですから、
裏づけのあるテクニックなのですね。心から同じ悩みを持つ人々のためにこの人は
説いてまわっている。ただ最後に「何を説いていたのか」と考えると、それがあっさりと
具体的な行為で表されてしまうそれだけなのが、妙に腑に落ちないのです。
よく考えてみれば、「よかったことを見つける」のには、自分の行為と向き合って一人
黙考することが求められます。これはりっぱな反省です。よくよく振り返る覚悟がないと、
毎日なんてとても続けられません。省みること自体はまったく腑に落ちることなのですが、
どうも妙だなあと感じるのは省みたあとの心の行き先なのです。
「よかったことを見つけ」ます。そこで現れるのは起きたことを喜ぶ心です。喜ぶとは
どういうことでしょうか。自分にとって好ましいと思うことで、物事を受け止めやすく
することでしょうか。うれしい、と思うだけなのでしょうか。日々是好日、とさらりと
言ってしまってよいのでしょうか。ここまで言うともう一歩踏み出せないでしょうか。
手を合わせて、「ありがたや」のひとことです。ここがひそかな背景にあるのでは
ないかと思うのです。感謝の情。ただその感謝を誰に向ければよいものか、それを
はっきりと示してやらない点――むしろ「自分」なのかもしれないですが――、同じく
省みることを求める説教とは異なるのではないかと思います。
柳宗悦の「妙好人評論集」をひもとけばこの言葉が身体になったような人ばかりが
現れてきます。南無阿弥陀仏の六字を唱える。心ゆたかに仏さまの教えを味わっている。
教えに埋没することなく、自ら省みることを常に覚えながら、罪深い自分をすら
みつめて拾い上げてくれる手があることを感謝して生きている。暮しそのものを受け止める
暖かいが真摯な姿勢、手を合わせて目を閉じて、背中を丸めてお題目を唱える沈黙が
私は好きです。
そうした受けとめ先を抜きに、まず省みることを示す「よかったことを見つける」講師の
ことばは面白いなあと思います。今の語り部は仕事の中から生まれてくることが面白い。
だれが語ろうと、行き着く先は、そこに仏がいようといまいと、同じなのではないでしょう
か。どんなことばでも巡って自分の中にいるのならば、そこに自分がいようと誰がいよう
と、日々を善しとして暮らしてゆければなにより。