※本編とゲームのネタバレがあります。未見、未プレイの方はご注意ください。
『返校』はゲームから始まり小説、漫画、映画、ドラマと複数のメディアを跨ぎ、おそらくこれからの後で台湾の情勢を語る上では欠かせない大きな存在となっている。どの世界もパラレルワールドとされ、少しずつ違った形でファン・レイシンは悲劇を走り抜けている。白色テロ時代に命をかけて次の世代の視野を広げるため、禁書を読む「読書会」を主催していたチャン先生とファン・レイシンの恋の唯一の邪魔者が、読書会を運営していたイン先生だった。
ゲームではファン・レイシンの密告により学校は追われるものの、校長の娘という立場を利用して逮捕を逃れ海外に亡命し、台湾にこそ帰ることはできなかったが天寿を全うするというファン・レイシンにとっては皮肉な運命を辿った。映画では明言こそされないが逮捕されて落命したらしい。イン先生は映画でもあまり表情の起伏はなく、密告者のファン・レイシンを責めるときすら冷静な態度を崩さない。どちらのメディアでも常に教育者としてある意味では理想的な人物に書かれている。彼らが自由な思想を持てるように命を賭して会を運営するのは彼女であり、常に生徒の安全に目を配る。だから映画で「彼女をとるか、読書会をとるか」とチャン先生に問いかけた。それを半分だけ聞いたファン・レイシンは密告を決意する。二人はすれ違う。
言葉自体はわかりやすい。けれどもファン・レイシンが言葉の半分だけしか聞いていないというところに、学生と教師の恋愛のリスクの延長で「読書会」に手が伸びることを避けたいというイン先生の事務的な目的が込められている。「読書会」自体を危うくするリスクを切り捨てることも踏み入ることも決断できなかったチャン先生の優柔不断にやきもきとする様子に、恋愛感情とも使命感ともどちらとも読み取れる苛立ちがある分、映画のほうが彼女をより観客に近い存在とさせている。自分の欲のために周りを犠牲にするファン・レイシンと、生徒の思想の自由のために自分を賭けるイン先生は対象的な人物として立たされているにも関わらず。
朝会の場で生徒を守り盾になる覚悟を口に出すのは彼女から、という場面には、教師という立場以上に自由を守ろうとする象徴としての意味合いが強いのだろうか、と少し考えてしまった。
『返校』はゲームから始まり小説、漫画、映画、ドラマと複数のメディアを跨ぎ、おそらくこれからの後で台湾の情勢を語る上では欠かせない大きな存在となっている。どの世界もパラレルワールドとされ、少しずつ違った形でファン・レイシンは悲劇を走り抜けている。白色テロ時代に命をかけて次の世代の視野を広げるため、禁書を読む「読書会」を主催していたチャン先生とファン・レイシンの恋の唯一の邪魔者が、読書会を運営していたイン先生だった。
ゲームではファン・レイシンの密告により学校は追われるものの、校長の娘という立場を利用して逮捕を逃れ海外に亡命し、台湾にこそ帰ることはできなかったが天寿を全うするというファン・レイシンにとっては皮肉な運命を辿った。映画では明言こそされないが逮捕されて落命したらしい。イン先生は映画でもあまり表情の起伏はなく、密告者のファン・レイシンを責めるときすら冷静な態度を崩さない。どちらのメディアでも常に教育者としてある意味では理想的な人物に書かれている。彼らが自由な思想を持てるように命を賭して会を運営するのは彼女であり、常に生徒の安全に目を配る。だから映画で「彼女をとるか、読書会をとるか」とチャン先生に問いかけた。それを半分だけ聞いたファン・レイシンは密告を決意する。二人はすれ違う。
言葉自体はわかりやすい。けれどもファン・レイシンが言葉の半分だけしか聞いていないというところに、学生と教師の恋愛のリスクの延長で「読書会」に手が伸びることを避けたいというイン先生の事務的な目的が込められている。「読書会」自体を危うくするリスクを切り捨てることも踏み入ることも決断できなかったチャン先生の優柔不断にやきもきとする様子に、恋愛感情とも使命感ともどちらとも読み取れる苛立ちがある分、映画のほうが彼女をより観客に近い存在とさせている。自分の欲のために周りを犠牲にするファン・レイシンと、生徒の思想の自由のために自分を賭けるイン先生は対象的な人物として立たされているにも関わらず。
朝会の場で生徒を守り盾になる覚悟を口に出すのは彼女から、という場面には、教師という立場以上に自由を守ろうとする象徴としての意味合いが強いのだろうか、と少し考えてしまった。