えぬ日和

日々雑記。第二、第四土曜更新を守っているつもり。コラムを書き散らしています。

・けだるく歩かず

2020年06月20日 | コラム
 目覚めるととうに十時を過ぎていた。出かける予定を立ててはいたが、薄い皮膜のような眠気に覆われて何をするにも糸で吊られた手足を突っ張るようにぎこちない。睡眠時間を数値にすれば十分すぎるほどに毎日眠っており、一日のほとんどは家で過ごしているにも関わらず、体はすっかり疲れていた。疲れているはずもないのに疲れていた。冷やした水を二杯飲んで寝直すとすぐにまどろみから眠りに入った。夢うつつに起きて水を飲んでは眠り、飲んでは眠りを繰り返していると二時半になった。用事は支払いや買い物といったありふれたことどもだが、遠出をしなければならなかった。私は明日の休日に予定を分けることにして、着替えて外へ出た。日差しは曇り加減で帽子が暑苦しかった。
 家に居続けのおかげで却って張りつめたふくらはぎが歩くごとに緩み、駅へ着く頃には足はほどほどにほぐれていた。人出は多い。二週間前のおっかなびっくりした距離感をすっかり忘れたかのように肩をぶつけあい列に並び、喫茶店は満員だった。それでも一月二月と違い、道行く人の殆どの顔から下は白いマスクで隠れていた。手縫いの華やかな模様のマスクをつけた人もいる。誰もが歩いてどこかに向かう。少し考えて、私は電車に乗ることにした。大して歩いていないにも関わらず、もう膝から下が重く沈むように疲れ始めていた。
 電車に乗るとマスクを付けない女がはす向かいに座っていた。マスクをつけた人々は平然と女の左右に腰かけている。女は小花柄のワンピースを着て、肩ほどの髪は結ばずに下ろしていた。身体を前に傾けて膝の上に肘を置いて頬杖をつき、髪の下から白いイヤホンのコードが左手に握られたスマートフォンへつながっていた。女は落ち着きなく黒目がちなどんぐり眼を左右に動かし、向かいに座る乗客の頭の上すれすれを掠めるように視線を走らせていた。仮に女の顔をじっと見つめていたとしても、女と目が合うことのない絶妙な位置へと彼女は視線を定め、耳から注入される音楽に合わせて首を上下させながら大人しく座っていた。目が大きく鼻は平たく、頬は少し垂れて、髪はつやがなく首にまとわりつき、時々唇を舌で湿らせながら彼女は音楽に聞き入っているようだった。
 電車の揺れで眠くなり、うとうとと目を閉じていくつか駅を過ぎたところで目を覚ますと、女はとうに電車を降りて、車内はマスクだけの人々になった。私の降りる駅はあと二十分先だった。

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