(1)元オウム真理教平田信被告の上告が棄却(報道)されて1,2審の懲役9年が確定した。逃亡20年近くの末に自首して逮捕されて、懲役9年の実刑とは割が合わない(it dosen't pay)と思えるが、犯罪の認識、役割、立場などの訴訟要件、裁判の心証審理で合理的に判断されたと見るべきだから致し方もないところだ。
同様に特別指名手配されて相次いで逮捕された菊池直子被告は2審の高裁で逆転無罪を言い渡された(検察が上告)のだから、何のための20年近くもの人目を忍んでの逃亡生活だったのか、割が合わない、むなしいばかりだ。
(2)思い起こすのは第2次世界大戦で旧日本軍として東南アジアに戦争展開して終戦敗戦を迎えながら、それを知らずにジャングル奥深く潜伏してひとり長年戦闘状態に置かれて、その後地元の人に発見されて無事帰国を果たした旧日本軍兵士2人のそれぞれの存在だった。
戦前の戦争思想教育をたたき込まれて、洗脳されてひたすら日本の繁栄と発展を信じて戦った人たちの割が合わないむなしいばかりの戦争の悲劇だった。
(3)戦後のその後の平和憲法に守られて経済成長著しい日本に当時の軍隊式最敬礼で飛行機のタラップから降りてくる時代ギャップの2人の痛々しい姿が、元オウム真理教特別指名手配3人の逃亡20年近くの末の疲労の逮捕と重なる。
こちらの方も元オウム真理教麻原(松本智津夫)死刑囚首謀の教団思想に洗脳されての20年近くに及ぶ確信的な逃亡生活の末の時代ギャップのあぶりだしだった。
元オウム真理教関連事件の全体像は何だったんのかは首謀者の松本智津夫死刑囚が何も語らない中で、いまだに全体像の核心的解明には至っていない。
(4)前述した対比としての終戦後の旧日本軍兵士のジャングルでの長い年月の潜伏生活と相通じるものがあるのは、発見された時の時代のギャップ感と20年近くの逃亡の代償が懲役9年と逆転無罪という時代のギャップ感に共通するそれぞれの「確信性(convictionism)」の悲劇だ。
共に「割が合わない」と書いたが、長い年月の逃亡、潜伏の意図した確信性はそれ自体が自覚するとか意思があるとか以前の確信的な犯罪(第2次世界大戦は国家的犯罪として処罰された)であり、その後の裁判で審理された時代の倫理、法律、コンプライアンス(compliance)としての判断がそれに見合ったものではないという国家、社会として「割が合わない」ことである。
(5)そして本人たちにとっては確信的に信じたものによる長い年月の逃亡、潜伏生活そのものが逮捕、発見によって「割が合わない」ものになってしまったパラドックス(paradox)悲劇である。
この二つの大きな時代の国家的(国家型というべきか、多分に元オウム真理教も国家的組織を描いていた)、確信的悲劇について、時代教訓として社会正義、倫理のパラダイム(paradigm)に活かしていくことがわれわれの責任だろう。
同様に特別指名手配されて相次いで逮捕された菊池直子被告は2審の高裁で逆転無罪を言い渡された(検察が上告)のだから、何のための20年近くもの人目を忍んでの逃亡生活だったのか、割が合わない、むなしいばかりだ。
(2)思い起こすのは第2次世界大戦で旧日本軍として東南アジアに戦争展開して終戦敗戦を迎えながら、それを知らずにジャングル奥深く潜伏してひとり長年戦闘状態に置かれて、その後地元の人に発見されて無事帰国を果たした旧日本軍兵士2人のそれぞれの存在だった。
戦前の戦争思想教育をたたき込まれて、洗脳されてひたすら日本の繁栄と発展を信じて戦った人たちの割が合わないむなしいばかりの戦争の悲劇だった。
(3)戦後のその後の平和憲法に守られて経済成長著しい日本に当時の軍隊式最敬礼で飛行機のタラップから降りてくる時代ギャップの2人の痛々しい姿が、元オウム真理教特別指名手配3人の逃亡20年近くの末の疲労の逮捕と重なる。
こちらの方も元オウム真理教麻原(松本智津夫)死刑囚首謀の教団思想に洗脳されての20年近くに及ぶ確信的な逃亡生活の末の時代ギャップのあぶりだしだった。
元オウム真理教関連事件の全体像は何だったんのかは首謀者の松本智津夫死刑囚が何も語らない中で、いまだに全体像の核心的解明には至っていない。
(4)前述した対比としての終戦後の旧日本軍兵士のジャングルでの長い年月の潜伏生活と相通じるものがあるのは、発見された時の時代のギャップ感と20年近くの逃亡の代償が懲役9年と逆転無罪という時代のギャップ感に共通するそれぞれの「確信性(convictionism)」の悲劇だ。
共に「割が合わない」と書いたが、長い年月の逃亡、潜伏の意図した確信性はそれ自体が自覚するとか意思があるとか以前の確信的な犯罪(第2次世界大戦は国家的犯罪として処罰された)であり、その後の裁判で審理された時代の倫理、法律、コンプライアンス(compliance)としての判断がそれに見合ったものではないという国家、社会として「割が合わない」ことである。
(5)そして本人たちにとっては確信的に信じたものによる長い年月の逃亡、潜伏生活そのものが逮捕、発見によって「割が合わない」ものになってしまったパラドックス(paradox)悲劇である。
この二つの大きな時代の国家的(国家型というべきか、多分に元オウム真理教も国家的組織を描いていた)、確信的悲劇について、時代教訓として社会正義、倫理のパラダイム(paradigm)に活かしていくことがわれわれの責任だろう。