オーバーチュアないんや~
ま、いいか…。
やっぱさ、銀橋芝居があるのがいいね!銀橋があるだけで、日生劇場では創れない別空間、異空間を演出出来るから、やっぱ大劇場公演は最高やね!
ええと、初めてご覧になられる方なら今作は全く問題ないかと思いますが、
初演も、映像でしか観たことない日生劇場版も、私みたいな誰よりも思い入れがあり、まるで映画「ミザリー」のキャシー・ベイツみたいに拘りが強い人間にとっては、
正直、あれもこれも言いたいことが山のようにあるのですが、
今日はやめときます。まだ観るから。
っていうか言わない約束をしたので超イジワル発言は控えます。ま、そんなイジワル言うようなダメ出しはないけどね。
あえて今、書いて差し支えがないのは、
うみちゃんのデイジーが、私の想像を裏切るほどめちゃくちゃ良かった!
初演の鮎ちゃんへの思い入れが強すぎて、デイジー役に関してはノータッチでいようと思っていたんですけどね、
思いの外、めちゃくちゃ良かった!
初め、めちゃ鮎ちゃんの喋り方を真似てるやん!?と思って観てましたが、だんだんうみちゃんのデイジーに変貌していって、全然過去のデイジーの亡霊がちらつかなかった!とっても好感が持てるデイジー像を作り上げていました。
墓場のシーンが全く嫌味がなかった。1番のダメ出しポイントにする予定で書く内容を観る前から決めていたのに、まさかの自然な流れに書くことがなくなった。
さち花さんのママとセイヤー夫人もめちゃくちゃ良かった!自分の役目を分かってるお芝居だったのでめちゃくちゃ安心して観ることができました。
あとまゆポンのイケオヤジぶり、ユウキちゃんの歌唱力、羽龍ちゃんのジュディ、が一目置く存在感がありました。
あとは、無難な役作りでした。まだまだ進化の余地を感じた。
2幕目のチナツ様の指輪の件の新シーン、あそここそがトムの人間性というか深層心理や無意識を1番出さなきゃいけない重要なシーンだと思うから、あそこは流して欲しくないな。
っていうか、全体的に台詞流し過ぎじゃない?間延びはしない分、重要なシーンがスルーされてしまってる。特にゴルフの最終ラウンドのシーンね。
ちゃんと言葉を置いて緊迫した重要なシーンにしなけゃいけないのに、軽く流されてしまってる。印象に残らなくなっちゃうんよね。
その点に関しては、うみちゃんとみちるちゃんが上手かった。あ、まゆポンも。まゆポンの台詞は、この作品のキーだからね、めちゃ重要。
♪神は見ている♪の三重唱?がめちゃくちゃ良かった!レイコ君とちなつ様の真骨頂なる見せ場になってると思った。
それにしても、いつからコーラスの月組になったん?と聞きたくなるくらい迫力が半端なかった!
なのに、歌から台詞になると声が小さくなったり、腹から声が出てなかったり、台詞が少ないんだから勿体なかった。あ、レイコ君ではないですよ。
レイコ君は、正直、力み過ぎやと思う。ぶっちゃけ、いい声やし声が通るからめちゃよく喋ってるイメージ。もう少し寡黙で俯瞰したクールなギャツビー像でも良かったような気がするが…。ぶっちゃけ、闇を抱えているようには見えない。m(__)m ま、カリンチョさんともアサコさんとも違うアプローチのギャツビーであったことには違いない。レオに近かったような…。ま、初めて観る方には問題ないギャツビー像ではあったと思う。普通にカッコイイからね。
せやな、どっちかというと、オダチンのニックにまだまだ迷いを感じたな。2幕目は良かったけどね。台詞を必要以上に丁寧に喋っていたから、不自然な会話になるんよね。段取りに聞こえる。ぶっちゃけ余計な間が多かった。2幕目は、感情が乗っていたので自然だったけどね。1幕目は緊張してたのかい?って感じ。
オダチンに限らず、全体的に、一方では台詞が流され、一方では台詞が不自然に置かれ、ぶっちゃけ、まだ台詞を咀嚼しきれていないというか模索中なのが伺える。
まあまあまあまあ、まだ観るので次回、どう進化しているのか楽しみにしてます。
そうそう、初演の時は、合言葉で楽しませてもらったから今回もアドリブ効かせて欲しいね。藁
プログラム、買うつもりなかったけど、絶対もりえちゃんが写ってるはず!と思って買ったらやっぱり載ってた!!
ありがとうございます!!
エリザベートといい、ギャツビーといい、もりえちゃんが、私の思い入れと関わっていて、ファンになるのは必然だったのかもね!(笑)
ちなつ様がトムを演じてくれて、ナツコ副組長がヒルダを演じてくれて、
ホンマに感謝感謝です!
追記:うみちゃんデイジー役作り考察。
今回、うみちゃんのデイジーがなぜ良かったのかを考えました。
こんなこと書いたら申し訳ないですが、中日劇場で観たともちゃんデイジーと日生劇場のあいちゃんデイジーが、ぶっちゃけ私のイメージではなかった。1番の理由は、ギャツビーの墓場のシーンでニックの手を握ったからです。
初演の時は、最初の頃は、鮎ちゃんデイジーはいっちゃんニックの手を握らず去っていたんですね。確か、そうだったはず!
その後、握る演出に変わり、それが東宝、中日、日生と継がれていったんですよ。
ちなみに、初演大劇場公演にはオーバーチュアはありませんでした。東京公演からです。
墓場のシーンの鮎ちゃんのデイジーは、完全に鉄の鎧を着た悪女に徹した登場だったので、映画では墓場には来ませんが、小池先生版では登場しました。そこに現れたデイジーは、冷酷な眼差しで登場。自分のせいでギャツビーが死んだ。その申し訳なさでは来たのではなく、完全にお別れ、もう記憶から抹消するための最後の挨拶に来たと私は解釈しました。本来、原作でも冷酷だから。鮎ちゃんも原作のイメージで登場したと思うんですよ、最初は。
ですが、途中でニックの手を握ることで、今まで創り上げたデイジー像が変化します。何が大きく変わったかというと、冷酷なデイジーじゃなくて、鮎ゆうきに戻ったんですよ。
何が言いたいかというと、鮎ちゃんと一路さんの関係性ですね。鮎ちゃんがトップになる前は、男役としていっちゃんの弟分を演じたり、娘役に転向してからは、新人公演でいっちゃんの相手を演じたこともあるんですよ。
なので、あの手を握るシーンは、鮎ゆうきが一路さんへのありがとうの感謝の意味も含まれていたと思うんですよ。真意は定かではないですが。
初めてそのシーンを観た時は、小池先生ありがとう!と素直に思った。
これは単純に、私自身が鮎ちゃんの卒業が悲しくて仕方なかったから、私が勝手に想像しているに過ぎないのですが、
鮎ちゃんのトップ時代の役柄からしても、デイジーほど大人な役でめちゃくちゃ綺麗な役はなかったんですよ。ずっと可愛い女の子の役しか演じてなかったので、それこそ、デイジーの登場シーンの美しさは、今までの鮎ちゃんの歴史と被るんですよ。
可愛い女の子が大人になったんですよ。デイジー役で。もう鮎ちゃん自身がデイジーそのものだったんですよ。
決して、鮎ちゃん自身が冷酷な女性であると言いたいのではなく、大人の女性役を演じている鮎ちゃんと被っているという意味です。
台詞通りの綺麗なおバカさんになっているんですよ。本当の馬鹿になったのではなく、感情を捨てた鉄の鎧を着た女性に。
ギャツビーと再会してその鉄の鎧が脱げそうになったけど、過去を取り戻せない…、人を轢いてしまった…、自分にはパメラがいる…。再度鉄の鎧を着、完全鍵をかけてしまった。人間の感情を捨てた、本当に綺麗なお馬鹿さんになってしまった。それが鮎ちゃんのデイジー像。
それが、一路さんの手を握ることで、鉄の鎧を着たデイジーが鮎ゆうきに戻ったように感じたので、めちゃくちゃ嬉しくて感動したんですよ。
これは、デイジーの生き様と鮎ちゃんの宝塚人生が完全一致した稀なケースなんですよ。小池先生だって、そのつもりでギャツビーを上演しようと思ってなかったと思うんですよ。
本来、小池先生のバウデビュー作に、しかもカリンチョさん主演の時に、ギャツビーをやりたかったけど却下されたから、大劇場のカリンチョさんの公演で実現したに過ぎないんですよ。
たまたま鮎ちゃんの卒業公演が、まさかのまさかの、鮎ちゃんの集大成となる当たり役になったわけですよ。
私自身、鮎ちゃんのファンとして、今までにないめちゃくちゃ演技力を必要とする役で、かつ大人の色気が漂いまくっている超絶美しい鮎ちゃんを拝見できて、最高に嬉しくて仕方なかった。しかも、作品としても宝塚史上最高傑作に出会い、中日公演にも行ったわけですよ。
これは、ともちゃんが悪いわけではなく、残念なことにラストの手を握るシーンでまさかの興ざめだったわけですよ。
理由は、上記の通り、冷酷なデイジーがニックの手を握ったとて紫ともに戻らないからです。戻る理由がない。
新しくカリンチョさんの相手役になったともちゃんが、あそこで手を握ったからといって紫ともに戻らないんですよ。一路さん、これから宜しくね!にはならない。鮎ちゃんだから成立すりシーンなんです。
何をしてもデイジーのままなんですよ。だから、手を握ってしまうと、あんたのせいでギャツビーが死んだやで!嘘を突き通すなら最後まで嘘を突き通しなさいよ!原作通り冷酷なままでいないよ!とついつい思ってしまう。
あの手を握らせることになんの意味があるんですか!?と小池先生に言いたくなるんですよ。
これは、日生でも同じです。ともちゃんもあいちゃんも原作通りのデイジーだったのに、手を握ることで今でいう、サイコパスか!?って思ってしまうわけです。
なので、長い前置きになりましたが、今回うみちゃんのデイジーでも、手を握る演出だったら同じように思うんだろうなーと思ったら全然違った。むしろ全然不自然ではなかったから驚いたのであります。
なぜうみちゃんのデイジーが良かったかと言うと、デイジーの初登場シーンには、全く鉄の鎧を着たデイジー像ではなかったこと。冷酷な綺麗なお馬鹿さんではなかった、まだ5年前と変わらないピュアなデイジー像に見えたから。ぶっちゃけ、5年前も気まぐれデイジーには見えなかった。純粋なデイジーがそのまま結婚して子供を育てている感じ。
鮎ちゃん、ともちゃん、あいちゃんのデイジーは、母親によって愛し合っていたギャツビーと強引に引き裂かれ、もう誰も信じない、感情を捨てた綺麗なお馬鹿な女性になる決心をし、5年後理想の女性像になっていた。
うみちゃんのデイジーは、まだお馬鹿さんになりきれていない、まだまだ5年前の純粋さが残っているデイジーだったこと。
ここがそもそもの大きな違い。
これは新しい発見だったのですが、人間って、本来備わった本質はそう簡単には変えられないんよね。
金持ちのお嬢さんは、たとえ貧乏になっても金持ちの振る舞いをしてしまう。逆に、貧乏だったら、お金持ちになってもついついケチケチしてしまう。例えばね。
生まれもった性格はそう簡単には変わらない。どんなに強い意思があっても。
これもたまたまだったのかもしれないけど、うみちゃん自身が歴代のデイジー像を真似しきれていないことが逆に功を奏した感じ。逆にいえば、うみちゃん自身の人間性が隠しきれなかったとも言える。
結果的には、綺麗なお馬鹿になる決心をしたけどもやはり自我を捨てきれなかった。トムは浮気症と知っているけど嫌いではない、パメラも大事、ましてや、ギャツビーとの関係性を引き裂いたお母さんや家族も大事。
ギャツビーと再会して心が揺れ、5年前に自分に戻ったけど、やはり今の家庭も大事。でも、ギャツビーも好き。
ギャツビーは、そんなデイジーをより愛しく思えているから自分が身代わりになってデイジーを守り抜いて証拠隠滅を図った(が殺されてしまう)ま、ニックは知っているけどね。
デイジーは、ギャツビーの愛を感じていたから、墓場に来た。花を手向けた。ニックの手を握ったのは、ギャツビーのために色々な後始末をしてくれた感謝の気持ちもあっただろうし、ひょっとしたら黙ってくれたことにも感謝してるだろうし、ギャツビーの分も生きていく決心もしてるだろうし、幸せになることも、
また、ギャツビーには申し訳ない気持ちと同時にトムと一緒に墓場まで秘密を持っていく、十字架を背負う覚悟も決めたとも思う。
だから、手を握っても海乃美月ではなくデイジーのままだったから良かったわけですよ、少なくとも私にとっては。
今まで綺麗なお馬鹿さんにはなりきれなかったけども、ギャツビーの死によって、この墓場のシーンによって、デイジーが本当の綺麗なお馬鹿さんになるきっかけになったと私は解釈しました。
うみちゃんはそこまで考えて創っていなかったと思うが、私にはそう思えるデイジー像だったので、新しい発見と解釈が出来たのでめちゃくちゃ良かったのであります。
うみちゃんのデイジーは、現代の女性に通じるリアルな女性像だったのではないでしょうか。
ということで、私の勝手な意味不明な解釈をお読み頂きありがとうございます。
苦情は受け付けませんので悪しからず。
m(__)m