諸行無常なる日々。或いは鬼渡神と神々の源流。

呪われた家系を生きる私の人生観や日常。それに立ち向かう為の神道的な考え。そして因縁の鬼渡神、神々の源流について考えます。

日産はホンダに平伏して従え。その1

2024年12月29日 21時07分02秒 | 政治・経済
今から24年前、日産からハイブリッド車が発売しました。ティーノ・ハイブリッドです。

ティーノってクルマ、知ってますか。

前席3人、後席3人の6人乗りの画期的な変なクルマで、幅は広いが全長は短い。魚で言うとマンボウみたいなクルマです。私的には気持ち悪いMrビーンがCMしていました。

試乗に行ったのですが、ボンネットが見えず、前も後ろも見えず、大変乗りづらかったのを覚えています。

私、断言しちゃいますが、日産のクルマってボンネットが見えて視界の良いクルマじゃないと絶対に売れません。

現にヒットした日産車は大変運転しやすかった。

普通自動車から撤退した「いすゞ自動車」のデザイナーをヘッドハンティングした後、本当に日産のクルマはヌメヌメしたデザインで運転しづらくなりました。日産がダメになったのは、あのデザイナーせいで間違いないです。名前は言いませんが。

ティーノ・ハイブリッドですが、限定100台で販売されました。

結果、ダメでしたね。燃費が悪くて。何たって1800ccの普通のティーノに燃費で負けていました。同じティーノなのにハイブリッドの方が燃費が悪い。そりゃ売れないですよ。

だから当時社長をやっていたゴーンが激怒してハイブリッドから撤退。電気自動車に注力。そのせいで日本の自動車メーカーで一人負け状態になったもの事実だと思います。

トヨタが世界一の自動車メーカーになったのはハイブリッド車のおかげですし、ホンダもハイブリッドを諦めなかった。こんなとこが明暗を分けたと言えますね。

さて、私事になりますが、私の父は日産車ばかり乗り継いできました。

サニーバンやバネットバンは何度も買ったし、オースター、セフィーロ、ブルーバード・シルフィ等々です。私的には不満でしたが。

確かに昔の日産は「技術の日産」でした。大昔のA型、E型エンジンはOHV、OHCエンジンなのに、トヨタのDOHCエンジンよりもふけが良かった。名機と言えるエンジンだった。

モータースポーツでのスカイラインやブルーバードの活躍もそう。だから日産には熱狂的なファンが多い自動車メーカーでした。

トヨタを追い越す可能性があるメーカーは日産しかない。亡くなった従兄弟もチェリーとスカイラインに乗っていた。昔の日産は確かに良かったと断言できます。


続く。




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心配するな。死は辛くない。痛くない。

2024年12月26日 21時40分34秒 | 人生
人生100年時代。もう心配でたまりません。間違って100まで生きたらどうしよう。寝たきりになったらどうしよう。

頭がボケずに寝たきりにならない年齢。私は80歳まで生きれれば十分。何なら70歳で亡くなってもOK。60歳の今無くなっても納得します。生が幸せだとは思えなかったので。

今、BS放送を観ていると健康食品のCMで溢れています。水とか青汁とか、イワシだけの煎餅とか、黒酢とかetc、etc。

決まって元気な後期高齢者が表れて、「100歳まで生きる、頑張る」とCMで言わせてます。「100歳まで生きるのが人生の清く正しいゴール」の様にCMしています。ここまで来ると洗脳ですよ、これ。

「下手としたら、100歳まで生きてしまう」。

そうなったら金も必要。だから新NISAやら生命保険やら入らないと心配で生きていけない。長生きする心配で鬱になる。そんな人生って幸せなんでしょうか。

人生ってね、ほんの80年位前は50歳程度だったのです。その位で死んだ方が苦しまないで済むし、痛みで苦しむ期間も少ない。

「飲むなら焼酎、死ぬなら卒中」。苦しまずに卒中でスパッと死ぬ。

東北には苦しまずにスパッと死ぬ事を望む人達が信仰する「ぽっくり寺」が多く存在しますが、余り長生きせず、介護で人に迷惑をかけず、スパッとあっさり死ぬのが、一番良い死に方だと思いますね。

そこで誰もが心配するのが死の恐怖です。死んだらどこに行くのか。

仏教では涅槃に行く事になっています。この涅槃ですが、その意味は「欲の無い世界」です。無我の境地です。

人間、欲があるから生きて行けるのですが、死んでから欲を持っても仕方がない。死の世界を心配しても仕方ないと思います。

それともう一つ。死での心配事。それは死の瞬間、痛くないのかだと思います。

この件に関してですが、私、心配していません。

私、脚立から落ちた瞬間、気を失って床にぶつかった衝撃を覚えていませんでしたから。

結構な人々が飛び降り自殺していますが大丈夫です。ぶつかる瞬間や痛みは覚えていないです。痛みを感じず死ぬ事が出来ます。

それと私の父が2年前に亡くなり、亡くなる瞬間を私だけが診ていましたが、痛みを感じず苦しまず亡くなりました。無になった感じで亡くなりました。

その瞬間を見て私、死とは無に成ることだと確信しました。

仏教の教えで涅槃に行って修行するのって嘘だと確信しました。

無になるんです。欲も無くなる。夢も見なくなる。死んでまで修行して苦しむのなんて嘘。

夢は欲ですが、欲が無いのって幸せじゃないですか。

っと思ったりもしたものの、欲が無くなり半分死んでいる私って、生きるのが辛いです。これって、まだ欲が残っていることですかねぇー。

まっ、取りあえず、死ぬ瞬間は痛くないのは間違いないと確信しています。死ぬ事を心配しても仕方ないです。誰だって死ぬのですから。

私位になると死の世界がチョッピリ楽しみだったりするのですが、そんな感じで生きていた方が楽なのは確かだと思います。

無になるのだったら、修行も天国も地獄もない。

欲が無くなるって事は、気に病む事が無くなるって事だと思いますしね。


ではでは。






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死に方を忘れた人々。

2024年12月23日 12時07分28秒 | 人生
以前、かかりつけの床屋のマスターとの会話です。

マスターは母親を心不全で亡くしたばかりです。82歳だったそうです。前日までピンピンしていたのに、朝起きてこないと思ったら亡くなっていたそうです。

マスターは若い頃に父親を亡くしていたので、母親の死には人一倍ショックを受けていましたが、苦しまずに亡くなったのは良かったと語っていました。

私は言いました。「私の父は終末医療の施設で何も食べれず、コロナで親族にも会えず、40キロまでやせ衰えて亡くなった。あそこまで苦しんで生きるべきではなかった。死を選んだ方が幸せだった」と。

マスターは創価学会員だと思われます。聖教新聞を購読していますので。

マスターは言いました。「それでも死んではいけない。苦しくても生き続けなければならない」と。

マスターは二人の兄弟も幼少時に亡くしています。死に対しては私よりも深く考えて生きてきた。その結論が「何が何でも生き続けろ」だったのでしょう。

私は反論できませんでした。母親を亡くしたばかりの彼に、自死を肯定する私の考えは言えませんでした。

「人間は必ず死ぬ。それまで生きる」。それが人生だと思います。でも、不健康な状態でも生きるのは酷。

酷な人生も人生なのだろうけど、苦しみ生きて死ぬ。それに達成感があるのか。死が待ち遠しいのではないか。そんな人生に意味はあるのか。

父は誤嚥性肺炎、更には膵臓癌の疑いで3カ月以上寝たきりとなり亡くなった。母は認知症で自分自身をも忘れた状態にある。心と頭脳は死に近い状態にある。

父は死を待って亡くなった。母も死を待っている状態である。医療で生を得られている状態。

父の場合も母の場合もそうだが、自ら自死を選択できる状態ではない。それは大変な不幸ではないのか。

「飲むなら焼酎、死ぬなら卒中」と言われているが、死を考えずに亡くなる。それも不幸な気がする。

昔は癌で余命が幾ばくもなくても余命宣言はされなかった。

私の父は大変気持ちが小さい人物だったので、余命宣言はしていません。最後まで完治を信じていた。それが正解だったのか。

今年、義妹が膵臓癌で苦しんで亡くなったが、余命宣言はされたらしい。しかし、家族がいるから自死は選べない。生きようとした。それは尊いと思うが、過酷ではないか。

辛くても死ぬ訳にはいかない。或いは死を決行できない状態。死に方を忘れた状態と言うのは過酷ではないのか。

キリスト教は命は神から与えられたものだから自殺は禁止されている。

仏教での死は生きての修業が困難になったので、修行場所を涅槃に変えるとして自殺は肯定されているみたいだ。

その二つの考えのどちらでも無い私は、仏教に不信感を感じていても生きるのが辛ければ死んでも良いと考えている。

注射でさえ、大降りの鬱が降って来る私である。生きるのには向いていない。っとは言え、我慢できるまでは死を我慢すべきだとは思う。

そして我慢できなくなったら死ぬ。死ぬ時は死に方を覚えているうちに死にたいと思う。

「人は必ず死ぬ。それまで生きる」。それが人生の根本だと思うが、これは中々残酷な言葉だと思える。


ではでは。







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心療内科・精神科の風景。

2024年12月20日 22時19分15秒 | 鬱病
今日、心療内科・精神科に通院した。薬はまだあったのだが、鼻炎の薬が欲しかったのだ。私の通院しているクリニックは内科も兼ねているので。

行ってみてビックリ。平日なのに60人以上患者がいる。医師は4人いるが、90分は掛かるのは間違いない。

私は大型テレビの直ぐ前の椅子に座った。会計と薬局の真ん前でもある。そこで会計や薬を受け取る患者を観察していた。

まず一番に気が付いたのだが、女性の患者は太っている方が多いと言う事。

うーん、何か馬鹿にされていそうな感じがする。事実、社会から馬鹿にされているのだろう。そのストレスで精神を病んで通院していると言えるし。

男性の患者は変人っぽい方が目立つ。変なデザインや漢字の刺青入れている方もいるし、かなりの長髪の方もいる。

ただ、共通している点は皆、礼儀正しい感じだ。言葉遣いも丁寧。悪い感じの患者はいない。

これっ、勿論、例外はあるが、精神を病んでいる方は心の優しさに原因があると思う。

この世の中、悪で溢れている。自然界も悪でなければ生きられない。人間社会も悪でなければ成功しない。これは或る程度は当たっていると思える。

しかし、悪に走り過ぎると必ず破滅するのも事実。

否、必ずと言うのは間違いか。ジャニー喜多川みたいに死ぬまで負を払わずに生きた人間もいる事だし。

でも、人生、生きる事には程々の悪は必要なのではないか。

出世する奴も程々に悪の奴が多いし、善なる者は出世や成功から遠ざかっている感じの人が多い様に思えるし。

うーん、分からん。ただ、一つ言える事は馬鹿に見える人は馬鹿にされるし、不幸になる可能性が高い。これは間違いない。

人が良さそうな顔をしている人はモテるかも知れないが、不運をも引き寄せるのも事実。

そう言えば精神科・心療内科には、高倉健みたいな只者じゃない感じの者はいないな。

誰からも一目置かれる顔をしているってのは、幸せな人生を送り易いと思う。

私は知っている。高倉健は本人も語っている様に、大変な不器用者だと言う事を。事実、彼はクルマをバックで入れられないそうだ。

私もそうだ。駐車場には頭から突っ込んでクルマを駐車する。私も大変不器用なのだ。だから高倉健みたいな顔に憧れる。出来れば天地茂みたいな顔になりたい。人が良さそうな顔をしている者は、大抵、不幸になると思えるし。

例えばフランク永井だ。彼は人が良さそうな顔をしている。だからフランク永井なのだ。

そして彼は愛人に子供が出来たと騙されて、苦悩して自殺未遂を起こした。その影響で脳に障害を持った。悲惨な晩年を迎えた。

自殺も失敗してしまう。不器用だなぁーと思う。不器用なのに愛人なんか持つかなぁー。

フランク永井に悪の心があったらどうか。多分、自殺なんてしないと思う。成功者としての人生を送れたと思う。

うーん、やっぱり程々の悪の心は必要なんだろうなぁー。

うーん、精神を病んでいる人達を観察して、私は何を考えているのだろうか。

うーん、私もよっぱど病んでいるのだろうなぁー。生きるのに向いていないのだろうなぁー。

そんな事を今年も思い続けての年末。今年も変われなかったなぁー。


ではでは。






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元旦は氏神か大歳神に初参りするのが好ましい。そしてお賽銭はお幾らが宜しいか?

2024年12月16日 10時30分46秒 | 神道
上記のタイトルですが、こんなルールなんてありません。

ただ、正月なのだから自分の住んでいる地域の氏神か、年越しの神である大歳神に参拝するのが、本来なのではないかな。そんな感じです。

っとは言え、大歳神を祀る神社って本当に少ないです。

何故かって。

そりゃ当時の朝廷や天皇家にとって都合の悪い神だからです。

何で都合が悪いのか。

そんな事言ったら、私も色々と柵のある人生を送っているので、そう気安く言えません。何れ詳しく語ろうかとは思いますが、取りあえずは「天照大神前霊だから」とだけ言っておきます。

さて、「初参りは何をお願いしようか」と考えている方も多いと思いますが、神道は「受代苦」の思想があります。

受代苦については私、再三語っていますが、「神は人の代わりに自らが罪を犯し、人の為に自らが酷い目に遭い、人の為に罪を受ける尊い存在」。それが受代苦の思想です。だから神道の神は尊いのです。

そんな人の為に苦しんでいる神に対して恋愛成就とか、商売繁盛とか、子孫繁栄とか、長寿祈願なんて邪道だとは言いませんが、やはり一番伝えるべきは感謝です。

自分の罪を引き受けて頂いている御かげで、今年も無事に過ごせました。有難うございます」。これが初詣の一番の基本です。

私としては初詣なのだから、先ずは感謝。それだけで済ませるべきだと思います。

でも、願いを叶えて貰いたいと思っている貴方もいますよね。

それだったら、貴方も多少の受代苦を受けるべきです。

それにはどうしたら良いのか。

そんなの神社の社に立てば分かるでしょ。その為の物が用意してあるでしょ。

そう、賽銭箱にお賽銭をお入れするのです。自分の経済面を考慮して、少々、高額のお賽銭を入れましょう。

よく、「ご縁があるように」とか言って5円玉オンリーの方がいますが、それは5円の価値の受代苦です。大して効果なんてないです。大した受代苦ではないですから。

例えば、その100倍の500円ではどうか。

500円は自炊している私にとっては中々の金額です。私の経済面で中々の金額をお賽銭として賽銭箱にお入れする。そりゃ、中々の御利益があると言うものでしょう。500円分の受代苦をしたのですから。

それと絶対にしてはいけない事。

初詣は多くの参拝客でごった返します。そこで必ず見かける光景ですが、10円玉辺りを投げ入れる行為です。

あれは大変宜しくない。銭形平次が盗賊に銭をぶつけるのと同じです。

神は受代苦で人の罪と苦しみを背負っていただいているのです。それなのに10円玉をぶつけられたら、貴方はどう思いますか。

私だったら「祟って、祟って、祟ってやる」です。それだけは絶対にやってはいけない。

お賽銭は順番を真摯な気持ちでお待ちして、お賽銭箱にそっと丁重にお入れくださいまし。それこそが本当のお賽銭です(キッパリ)。

神社が神が鎮座する場所です。鎮まりお座りになっている場所です。そこに金を投げ入れるなんて行為するなら、行かない方が絶対に良いです。

まっ、私はそう考えております。


ではでは。







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