ノイバラ山荘

花・猫・短歌・美術な日日

伊豆 天城・河津

2010-11-13 10:38:38 | 
こんにちは、ノイバラです。
ずいぶんなご無沙汰です。

11月に入って、ばたばたしたあと、
風邪をひきこみ、ひどい咳で夜眠れない状態で、
ようやく昨日お医者さん薬をいただいて
快方に向かっています・・しかし、眠いです・・(´-ω-`)✿

小春日和の続く世間では、
すでに紅葉が始まっています。
先週の法事では、高尾のイチョウ、ケヤキ並木がきれいでした。

      

**************


もう10日前になりますが、伊豆のバス旅行に行ってまいりましたので、
『伊豆の踊子』の舞台となった旅館「福田屋」、まだ青葉の滝などをご覧ください。

枚数が多いですので、いつものピカサのスライドショーでどうぞ!

中山道桶川宿――桶川1時間かけあし観光

2010-03-28 20:36:22 | 
さいたま文学館におでかけのついでに、中山道桶川宿の名残を観光しました。

桶川市観光協会HP 


桶川駅改札脇のお店もそば処「中山道」


東口駅前。
江戸までは遡らないでしょうが、なにやらレトロな建物。


自転車預かりのお店があるのは、
八王子駅南口の昭和40年代後半と同じでなつかしい・・。


まずHPで場所を確かめておいた「中山道宿場館」を訪れて、
ボランティアガイドの方に1時間お勧めルートをお尋ね。


ガイドの外川さんが歴史的なことがらから
渓斎英泉・歌川広重の木曾街道六十九次の画まで、
コンパクトに分かりやすく説明してくださいました。感謝。

江戸日本橋から京都三条大橋まで途中に69の宿を置く中山道、
昨年10月1日に中程の馬籠・妻籠間を歩きましたが
今度は江戸まで10里、ぐっと近い桶川です。
以下、ガイドさんの説明と後日調べたことをまとめてみました。

板橋、蕨、浦和、大宮、上尾、桶川と6つ目の宿場ですが、
当時桶川は山形に次ぐ日本第二の紅花の産地で、
中山道沿いは紅花商人と呼ばれた豪商の蔵と、
買い付け商人のための旅籠が立ち並び繁盛していたそうです。
山形は7月、桶川は1ヵ月早い6月に生産されるので喜ばれ、
京都から買い付けの商人が多く訪れ、
馬の背に紅花餅を積んで帰ったということです。

紅花餅(紅餅、花餅)というのは、早朝に摘み取った花を水洗い、
花踏み、(発酵の為の)花寝せ、餅丸め、餅踏み、餅乾しの作業を経て、
水溶性の黄の色素を抜き、紅の色素を残し粘りの出たところを
餅状に搗いたものをいい、当時同量の米の百倍の価格で
取引されたこともあるそうです。
市内を荒川、江川、赤堀川などが流れ、紅花の栽培に向く川霧の立つ
土地柄でありましたが、ほかには麦、煙草が特産だったようで、
英泉の木曾街道桶川宿の画には麦を打つ女と
軒下に干された煙草が描かれています。

桶川が繁栄していたことは、桶川稲荷神社の日本一重いという
610kg.の力石にも現れています。
当時は力士と呼ばれた力自慢が全国を巡業しており、
この力士を呼んで石を持ち上げさせるという興行を行ったらしいのです。
力=豊穣のイメージで、相撲が神事であったように、
力自慢もまた神に捧げる行為であったのでしょうか。
(そういえば、尾道にも神社に力石がありました・・)

皇女和宮のお輿入れのときもこの桶川に宿泊しており、
本陣には和宮が宿泊した部屋が残されているそうです。(非公開)
1ヵ月近くかかった京からの旅、あと二日というところです。
和宮は今でいうハンモックに就寝なさったこと
(疊上だと下から槍などで突き上げられて暗殺される恐れがありました)、
おトイレは畳のお部屋であったこと、面白いお話は尽きませんが、
何分、1時間ですので失礼して急ぎます。

 
桶川稲荷神社。

 
紅花商人寄進の石灯籠。(たくさんある・・ど、どれ?全部?(・ω・;A )と力石。
ここから南下。


本陣遺構、公開されていないので入り口のみ。


小林家住宅(もと旅籠)。
現在は「小林木材工業株式会社」と「Tea & Craftブラッドベリー」。


矢部家。


「島村老茶補」。


その裏の島村家住宅土蔵。(三階建て! 第一土曜のみ公開)

 
武村旅館。現在はビジネス旅館として宿泊可能です。
後ろに当時の部屋が残してあるらしいのですが、見学できません。



玄関内部の写真だけ撮らせていただきました。


これは古い扉? 玄関内に立てかけてありました。


気になったお店「べにっこ」。
「べに花まんじゅう」を作っているらしいですが、販売はしていないようです。


木戸跡。木戸は宿場の出入り口。
宿場を挿む形で入り口出口にあったそうです。


桶川駅入口交差点より北を望む。

昭和40年代に古い建物は軒並み壊され、あまり残っていないのが残念です。
桶川観光協会のみなさん!
残っている建物は是非保存公開していただき、
特産の紅花と麦を使ったおみやげと地酒がコンパクトに集まったお店を、
駅前から中山道への道すがらに設置していただきたいです。
(「ふるさと館」は遠すぎます(泣))

途中、地元の酒屋さんでお隣の上尾の地酒「文楽 樽酒」を購入。
甘口で飲みやすく、木の香りがよかったです。
こんなふうにひっそりとした酒屋さんでおかみさんにお話を
うかがいながら買うのも好きなのですけれど、
べに花まんじゅうが食べてみたかったです。

鎌倉かけあし散歩

2009-10-30 23:36:16 | 
秋晴れの1日、鎌倉山、長谷を訪れた。
紅葉は始まっていて、黄は散り始めていたが紅朱はいまひとつである。

朝、息子が帰ってきてお風呂に入ったり
食事をしたりしていたので、家を出るのが遅れる。
何しろ、同僚の個展を観にはるばる鎌倉山まで行くのだ。
早く出発しなければ夕方5時には暗くなってしまう。

横浜線→横須賀線、電車を乗り継ぎ2時間弱で鎌倉駅、
さらにバスで西進、15分ほどかけて鎌倉山。
ぼんやりして途中で東海道線に乗り間違えてしまったが、
気がついてよかった。(・ω・;A 余計遅れる

バスを待つ間に鎌倉ニュージャーマンで「リスケット」購入。

鎌倉みやげの定番は「鳩サブレ」だし、
ニュージャーマンと言えば「かまくらカスター」なのだが、
黒米・黒豆・黒胡麻・黒松の実、黒加倫入りでヘルシー、
リスの包装もかわいい「リスケット」が私のお気に入り♪
5個入り箱¥530、リュックに詰めて、出発。

鎌倉はリスが多いのだ。
よく姿をあらわすので、増えて困ると噂にきくタイワンリスなのだろう。
二ホンリスは恥ずかしがりなので、人前に現れることは稀だ。

画廊は銀色の四角い建物で目立つ。
「鎌倉山」バス停降りてすぐ。

「傍嶋崇個展」@鎌倉画廊
昨年建てられたばかりの画廊、中は広くて、
1階は受付と小品、グッズ展示、2階常設展、3階で個展が行われていた。
螺旋階段をのぼって3階、光が明るくて気持ちがよい。
壁面に油絵の抽象画10数点、ガラスケースにテラコッタの小品が数点。
新しいスタッフなので彼の作品は初めて観る。
父子4人、芸術家一家なのだが、お兄さんとは全く違う画風だ。
渋めの色遣いで、抽象だがよく見ると具象の形が隠れている。
いくつか受賞もしている彼は新進気鋭の期待される作家なのだ。


お昼は鎌倉山ロータリーをはさんですぐの「鎌倉山茶房」
画廊の方におすすめいただいた。
カレーがおいしいらしいので、キーマカリーを。
スパイスがたっぷりと効いている。
コーヒーとセットで¥1300。
カレーを食べながらゆったりとした住宅地の明るい道路をながめていると、
三叉路からは大船へゆくバス、江ノ島方面へゆくバスも走っている。
海もいいなあと思ったが、もと来た鎌倉駅へ戻ることにした。

  
バス停で待っているときの点景。

来るときにはあまり観光のことは考えていなかったのだが、
大仏さまでも観ていこうかという気持ちになったのは、
行きのバスが渋滞で大仏通りをのろのろ走っているときに、
かわいいお店を発見していたからだった。

大仏前下車、鎌倉ねこ屋

手拭いだの絵葉書だの置物だの、どれもかわいくて困ったが、
絵葉書と手拭いを購入。

  
大仏さまを見たのは実に26年ぶり。
鎌倉大仏、正しくは銅造阿弥陀如来坐像
大異山高徳院清浄泉寺(しょうじょうせんじ)
有名な大仏さまであるのに、寺院の創設についても、
大仏の造像についても、はっきりしないのだそうだ。
大仏殿は津波で倒壊したらしい。

以前は与謝野晶子の歌の「釈迦牟尼は美男におはす」に
承服できなかったものだが、青空につくづくと見上げると、
私の尺度の美男ではないが、いいお顔だと思った。


大仏殿などに安置されていれば見られないお背中は丸くて、
2つの窓が開いている。
吟行に来たら、この背中を詠う歌人もいるのではないか?
と可笑しくなった。

  
青空に栴檀(楝)の実が美しい。

まだ葉が落ちていない木もあるが、根元を探すと実が落ちている。

修学旅行の生徒、観光の外国人が多数。
鎌倉の観光客はフランス語率が高く、
また民族衣装サリーをまとったインドからの一行が目立った。
そのまま駅まで歩きながら長谷寺、文学館に寄る。

長谷寺
   

5年くらい前に鎌倉で吟行会が行われ、
今は亡きAさんが鎌倉をご案内下さった。
あのときは、長谷寺と、鶴岡八幡宮と、あとはどこに寄っただろう。
白いさざんかの咲く道を歌会の皆と歩きながら、
先生の鞄は一澤帆布の バッグなのだなあと思ったのを覚えている。


長谷寺の、先生の御歌が刻まれた鐘もそのとき見学したのだった。

・風の音(と)の遠き未来を輝きてうち渡るなり鐘の響きは

  
いよいよ時間がなくなったので、小走りである。
駅までの途中で見かけたレトロなお店と看板。

閉館30分前にすべりこんだ鎌倉文学館

     
お庭には秋のバラが満開。
この季節に来たのは初めてなので、まずお庭を下ってバラ園を撮影。
入館、文豪の手紙を鑑賞。
無駄のない表現に、無駄で出来上がっている私は自分が恥ずかしい。

文通が趣味だった私、死ぬ前に、
一通も捨てていない段ボール数箱分の手紙を処分せねばなるまい。
これだけ返事をいただいたということは、
同量の手紙を書いていたということである。
このエネルギーを作品に昇華させていれば、
あるいは作家になっていたかもしれない(笑)とも思うが、
手紙は作品にするための呻吟とは別のもの、
私の元気のもと、純粋な喜びなのだ。
まだまだ書くと思うのだが、一生の終りはどこにあるか分からないので、
おつきあいいただいた方々にここで感謝しておこう。
楽しい時間をありがとうございました。

すぐ話が横道にそれるが、
帰りは始発茅ヶ崎からのんびりと相模線に乗っていくことにする。
思わずたくさん歩いたのでくたくた、うとうとしていたのだが、
携帯メールで目が覚め(´・ω・`) はっ、
相模線のおもしろさに気がついた。

①駅名。
茅ヶ崎、北茅ヶ崎、香川、寒川、宮山、倉見、門沢橋、社家、厚木、
海老名、入谷、相武台下、下溝、原当麻、番田、上溝、南橋本、橋本。

見慣れない地名は歴史的なイメージを膨らませる。
ことに社家(しゃけ)、原当麻(はらたいま)は不思議で、帰ってから調べると、
相模原の地名は縄文人が名付けたという郷土史家の文章に行き当たった。

相模原は古くは海岸で3万年前から人が住み着いたという。
土地の特色を現す地名の意味はポリネシア語、
後に漢字を当てはめたのだという説があるらしい。

②単線
以前から「相模線は時間がかかる」というイメージで敬遠していたのだが、
途中の駅で何度も長い停車をするのは、単線だからということに気がついた。
(・ω・;A すみません今頃。

③ドアのボタン式開閉
通年・終日にわたってドア開閉をボタン方式で行っているということだ。
中央本線では冬期のみ。
駅に着いてもドアが開かないので、初めてだと
ドアの前に立っている人は突然あわてる。
慣れた人はまずドアを開けてから、自分は降りながら「閉」ボタンを押す。
そうすると乗客がわざわざ立って閉めにいかなくてよいのだ。
この相模線では公認のワザらしい。

絵画を観に鎌倉山に出かけたら、思わず楽しい発見がたくさんあったのである


秋の中山道(馬籠~妻籠)ハイキング③

2009-10-02 23:49:49 | 

山裾の蕎麦畑には芭蕉の句「蕎麦はまだ花でもてなす山路かな」。


山を出て、庚申塚を左に折れるところから、大妻籠。



大きな旅籠が数件あり、泊り客の姿も見えます。


山女の養殖、米の天日干し、
ひろげられた山栗などをめずらしく見ました。

そして、妻籠。
外国人も含めて、観光客がぞろぞろと多いです。



寺下の町並み、18世紀の木賃宿上嵯峨屋。


金木犀が花盛りの枡形跡。


観光案内所、妻籠宿本陣など素晴らしい景観の写真を撮りながら、
駐車場まで走ります。


お店をのぞく暇がなかったので、駐車場の直前の「ゑびや」という
旧仮名づかいの心をくすぐられる茶房で家族のために
「栗きんとん」と「栗きんとん羊羹」を買いました。
中津川の名店「松葉」から仕入れられたものだそうです。

このあと、お土産物屋さんに寄るからいいやと思ったのが間違いで、
「木曾路館」では温泉で烏の行水をしたのみで、
帰りの双葉SAでもお土産を買う時間はなく、ああ、ごめんなさい。 
(´;ω;`)←おもに職場の人にあやまっています。
温泉はアルカリ単純泉、つるつるしていて気持ちよく、
露天の眺めがよかったです。


いただいた完歩証明書。\(´;ω;`)/



バスでは寝るつもりが、あまりに雲がドラマティックで美しく、
見惚れました。

バス旅でいつも驚嘆するのは、添乗員さんの定めた時間の5分前には
必ず全員揃っているというツアーメンバーの優秀さ。
添乗員さんの時間と人を読む力も素晴らしいが、
でこぼこの山道を越え、観光の誘惑を振り切り、
定刻に一つの地点に数十人が集まるのだ、ああ、素晴らしい。
私にはとてもあたりまえのこととは思えない。

私がよく行くお手軽バスツアー、やたらと買い物ばかりさせられるのが
嫌だったのですが、今回のように移動距離が長いハイキングだと、
不愉快を我慢しなくてよくて快適でした。
しかも、私にはいつも食事の量が多すぎるのですが、
お弁当だと量がちょうどよく。
さらに、最後、定刻7時半ぴったりに帰り着く、ドライバーのプロ魂を見ました。

ああ、楽しかった♪

秋の中山道(馬籠~妻籠)ハイキング②

2009-10-02 19:23:33 | 


さて、いよいよハイキング当日、お天気は上々。
降り続く雨の雲が切れて、ぽっかりと日が射した1日だったのです。
やっぱり普段の心がけがいいからなっ (´・ω・`)

朝7時半集合。
電話で力強くはげましてくださった添乗員さんは背の高いがっちりとした山男、
私が途中でへばっても拾い上げて背負って山を下ってくれそうだわ♪
と無上の信頼を寄せられる方でした。

安心して梅のお握りの朝ごはんを食べて、4時間の中央高速道のドライブ。
うとうととするうちに山梨、長野を突っ切り、岐阜の中津川ICで降ります。
八ヶ岳PA、始めての神坂(みさか)PAで休憩をとりました。


八ヶ岳で野沢菜とくるみの熱々おやきを♪
私はおやきの具は餡子など甘いものよりも
野沢菜や茄子といったのが好きです。


車窓からは、刈り取り前の黄金の稲穂、刈り取り跡の田、
たわわに実った林檎の木などが見えます。


このあと、道中でと渡された小淵沢の「丸政」のお弁当も車中で♪
材料によいものを使っているらしく、バランスもよく、大変おいしかったです。
いつもツアーのハイキングでは他人よりちょこまかと写真撮影する分
遅れるので、食べている時間がもったいないのです。

山中を走り、馬籠宿へ。
ここから妻籠へと東京方面へ戻る形で歩きます。
私たちが歩く旧道と車道が繩のように縒り合わさった形で続いているので、
間に合わなくなったら車道に出てタクシーを呼べばいいとのこと、さらに安心。





馬籠は2度の大火でほとんどが焼け、
現在の建物は復元されたものだそうです。



町並みを抜けて山道に差し掛かるころ、恵那山が見えます。
藤村の一節を思います。
「山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、
美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。
なんとなく西の空気も通(かよ)って来るようなところだ。」




しばらく山中を歩き、梨の木坂を越えたあたりで開け、
ひとところ人家や畑があらわれます。
畑仕事の帰りのおばあちゃんに出会ってご挨拶。


今では宿として使われていないような家を道沿いに何軒か見て歩くうち、
じきに峠に着きます。


馬籠峠。
ここで行程の3分の1。


峠からはまた山中を下ります。


立場茶屋、ここが馬籠と妻籠の中間地点。



茶屋の前には湧き水が飲めるようになっていて、
中に入るといろりの火が燃えています。
お水はやわらかくて癖がなくて、おいしかったです。


椹の巨木と道端の点景。


大妻橋から下をながめたところ。


山肌がむき出しのところは、白っぽい細かい石が露出しています。
雄滝・雌滝は道より50メートルほどはずれたところ。


木々の間の岩を伝っていって、雄滝が眼前に現れる瞬間は、
「おおっ」という感じです。



そんなに大きくはないのですが、白くほとばしる水と
透けて見える赤っぽい鋭利な岩肌とのコントラストがすばらしい。


奥の雌滝はレンズに水しぶきがかかるところまで近づくことができました。

ゆっくりしたいところでしたが写真の撮りすぎで遅れ、
ツアーの人が回りにいなくなったので、急ぎ始めます。

続きはこちらへ。

秋の中山道(馬籠~妻籠)ハイキング①

2009-09-30 00:08:28 | 
昨年、廣重の東海道五十三次の歌55首を作ってから、
中山道をいつか歩いてみたいと思っていました。

バス旅の案内を見て、都民の日のハイキング♪
とごく軽い気持ちで申し込みました。
気候もいいし、そろそろ紅葉も始まっているのでは♪

日本の歴史も地理も私にとっては闇です。
中山道の全貌、調べてみたら2006年にこんな番組がありました!


街道てくてく旅

歌川廣重・渓斎英泉によって描かれた
『木曾海道六拾九次之内』に沿って歩くという番組。


馬籠宿を英泉が、妻籠宿を廣重が描いています。
かなりの山・・?(・ω・;A

中山道第43番の宿、馬籠は島崎藤村のふるさとです。

『夜明け前』の書き出し。
いい文章だなあ~。

「木曾路(きそじ)はすべて山の中である。
あるところは岨(そば)づたいに行く崖(がけ)の道であり、
あるところは数十間の深さに臨む木曾川の岸であり、
あるところは山の尾をめぐる谷の入り口である。
一筋の街道(かいどう)はこの深い森林地帯を貫いていた。
 東ざかいの桜沢から、西の十曲峠(じっきょくとうげ)まで、
木曾十一宿(しゅく)はこの街道に添うて、
二十二里余にわたる長い谿谷(けいこく)の間に散在していた。
道路の位置も幾たびか改まったもので、
古道はいつのまにか深い山間(やまあい)に埋(うず)もれた。
名高い桟(かけはし)も、蔦(つた)のかずらを頼みにしたような
危(あぶな)い場処ではなくなって、
徳川時代の末にはすでに渡ることのできる橋であった。
新規に新規にとできた道はだんだん谷の下の方の位置へと降(くだ)って来た。
道の狭いところには、木を伐(き)って並べ、藤(ふじ)づるでからめ、
それで街道の狭いのを補った。
長い間にこの木曾路に起こって来た変化は、
いくらかずつでも嶮岨(けんそ)な山坂の多いところを歩きよくした。
そのかわり、大雨ごとにやって来る河水の氾濫(はんらん)が
旅行を困難にする。
そのたびに旅人は最寄(もよ)り最寄りの宿場に逗留(とうりゅう)して、
道路の開通を待つこともめずらしくない。
 この街道の変遷は幾世紀にわたる封建時代の発達をも、
その制度組織の用心深さをも語っていた。
鉄砲を改め女を改めるほど旅行者の取り締まりを厳重にした時代に、
これほどよい要害の地勢もないからである。
この谿谷(けいこく)の最も深いところには
木曾福島(きそふくしま)の関所も隠れていた。
 東山道(とうさんどう)とも言い、
木曾街道六十九次(つぎ)とも言った駅路の一部がここだ。
この道は東は板橋(いたばし)を経て江戸に続き、
西は大津(おおつ)を経て京都にまで続いて行っている。
東海道方面を回らないほどの旅人は、
否(いや)でも応(おう)でもこの道を踏まねばならぬ。
一里ごとに塚(つか)を築き、榎(えのき)を植えて、
里程を知るたよりとした昔は、旅人はいずれも道中記をふところにして、
宿場から宿場へとかかりながら、この街道筋を往来した。」

馬籠の記述もあります。

「馬籠(まごめ)は木曾十一宿の一つで、この長い谿谷の尽きたところにある。
西よりする木曾路の最初の入り口にあたる。
そこは美濃境(みのざかい)にも近い。
美濃方面から十曲峠に添うて、曲がりくねった山坂をよじ登って来るものは、
高い峠の上の位置にこの宿(しゅく)を見つける。
街道の両側には一段ずつ石垣(いしがき)を築いて
その上に民家を建てたようなところで、
風雪をしのぐための石を載せた板屋根がその左右に並んでいる。
宿場らしい高札(こうさつ)の立つところを中心に、
本陣(ほんじん)、問屋(といや)、年寄(としより)、伝馬役(てんまやく)、
定歩行役(じょうほこうやく)、水役(みずやく)、七里役(しちりやく)(飛脚)
などより成る百軒ばかりの家々が主(おも)な部分で、
まだそのほかに宿内の控えとなっている小名(こな)の家数を加えると
六十軒ばかりの民家を数える。
荒町(あらまち)、みつや、横手(よこて)、中のかや、
岩田(いわた)、峠(とうげ)などのがそれだ。
そこの宿はずれでは狸(たぬき)の膏薬(こうやく)を売る。
名物栗(くり)こわめしの看板を軒に掛けて、
往来の客を待つ御休処(おやすみどころ)もある。
山の中とは言いながら、広い空は恵那山(えなさん)のふもとの方にひらけて、
美濃の平野を望むことのできるような位置にもある。
なんとなく西の空気も通(かよ)って来るようなところだ。」

「高い峠の上」・・うん? (´・ω・`)
峠越えの道ではありませんか!

ツアーの案内書をよくよく読むと、
馬籠から馬籠峠を越えて、妻籠へ行くとあります。
峠を越えて9km3時間! (´;ω;`) ひ~嘘だろ~
高尾山にも最近ご無沙汰の私に歩き通すことができるのでしょうか。

なあに~大丈夫ですよ~という添乗員さんの力強い電話の声に励まされ、
ほ、ほんとかな・・(・ω・;A ←心配性
どきどきしながらその日を待つ私です。

続きはこちらへ。

鬼の窟(いわや)古墳

2009-09-17 09:35:50 | 
宮崎のオプションツアーで出かけた西都市、西都原(さいとばる)古墳群。
3世紀中頃から7世紀前半のものらしい。
比較的新しいものの中に、鬼の窟古墳(6世紀後半)がある。

この鬼の窟古墳には伝説があって、HP「PhotoMiyazaki-宮崎観光写真」に詳しい。

引用させていただく。

・・・木花開邪姫(このはなさくや姫)を嫁にと願う悪鬼が、
父の山の神、オオヤマツミから一夜で岩屋をつくる様に言われ、
一夜で完成させたところという伝説があります。 
コノハナサクヤヒメを嫁にと願う鬼は山の神、
オオヤマツミの指示どおり一夜にして岩屋を造り遂げます。
安心した鬼はうつらうつら・・・夜が明けて鬼がおきて見ると
ちゃんと完成したはずの岩屋の石が一枚抜けています。
これは朝、鬼が寝ている間にオオヤマツミが
石を一枚抜き取った跡とも言われています。
オオヤマツミが朝あわてて岩屋から抜き取って投げたこの石は 
西都市の石貫神社参道入口に据えられている。
古墳の入口から玄室に至る道の天井に大きな隙間があります。
鬼の窟古墳という名前はこの伝説から由来しているのでしょうね。・・・

ううっ、なにやら悲しい伝説なのである。(´;ω;`)
伝説は伝説であるが、ひょっとしたら幾分かの真実が
含まれているのかもしれない。
鬼とは、時の為政者が名付けたのであろうから、
彼らを脅かすほどの力を持った眷属であったに違いない。
のちに全て都合の悪いことは彼らのせいになり、
「悪鬼」のイメージが植え付けられたが、
コノハナサクヤに恋をしたのは実は純真な青年だったのかもしれないし、
あるいは財力はあるが政治的に劣勢の鬼の一族が願う
政略結婚だったかもしれない。

こんなふうに夢想してはいけないだろうか。
鬼の青年は、窟を完成したのだ。
一夜で完成させるのだから、おそらく1人ではなく、
部下や人足を何人も使い、力を傾けて突貫工事をしたにちがいない。
鬼は先頭に立って工事を指揮する。

予定したより早く工事が終る。
夜明けまでには時間がある。

ほっとして、腰を下ろし汗を拭いつつ、
疲れて眠りこんだ部下たちをながめながら、鬼の心を横切る不安。
自分はコノハナサクヤを幸せにできるのだろうか?
このまま窟を引き渡して結ばれたら、コノハナサクヤは不幸になるのではないか。
政略結婚で、自分しか守るものがいない敵陣へ来て、幸せになれるのだろうか。
敵ではない男と結婚すれば、自分と一緒になるよりも幸せなのではないか。
男の横顔を松明が照らす。
しかし、あまりに愛しいコノハナサクヤ。
逡巡しつつ、朝を迎える。

そこで暁に岩を一枚抜いたのは、オオヤマツミではなく、鬼だった。
鬼は心優しく、冷静な男だった。
オオヤマツミは、娘を鬼に差し出さなくてすんで、ほっとしたに違いない。
鬼の心のうちがわかったのか、わからなかったのかは謎であるが、
ともあれ事情はわからないながらも、口をつぐんだのだ。
余計なことを言う必要はない。

鬼が嘆き悲しむのを見て、回りの誰もがオオヤマツミが抜いたに違いない
と思うのだけれど、それは鬼の狂おしい断念の悲しみだったのだ。

なんだか、今でも古墳のまわりを鬼が泣きながら走り回っているような気がした。
おなじ悲しみを心にしまう人たちに伝えられて、伝説は残ったのだ。
     
           *

九州には古墳が多いのだろうか。
旅の写真を見ながら、熊本出身の母は、近隣の古墳の話をした。
遠足で行った二子山(前方後円墳)や、
今では立派に見学できるようになった家のそばの塚のこと。
担任の教師が考古学マニアで、授業そっちのけで古墳の話をしていたこと。

「私も一緒に旅ができた、ああ、楽しかった!」

ああ、楽しかった、は私の口癖だとT中さんに指摘されたが、
母の口癖でもあるのに、気がついた。