若い人は知らないかもしれないが、日本の自動車にとって最大の転換点は1970年代のオイル・ショックであった。
中東の産油国が中心となって、原油の輸出を政治的武器として活用した結果がオイル・ショックであった。この経済的な衝撃は世界中に波及したが、それだけでは済まなかった。自動車がガソリンを燃焼させる過程で排出される環境汚染物質にまで波及した。
その結果、オイル・ショック以前と、その後では車の性能がまるで違ってしまった。それまでガソリンをジャブジャブと燃やす大排気量エンジンこそが正義であったアメリカでさえ、ガソリン価格の高騰と環境汚染物質に対しる世間の非難からは逃れられなかった。
この衝撃に対する最初の回答が、HONDAの小型車シビックであった。小さいが十分なスペースを確保し、かつ燃費が良くて環境汚染物質も少ない。それゆえに世界的な大ヒット車となった。デカいから偉いが正義であったアメリカでさえシビックは大ヒットした。車の価値観が一変してしまったのだ。
しかし、小型軽量化したが故に車の乗り味は低下した。省エネを重視し、環境汚染物質を減らしたが故にエンジン出力は低下した。つまり退屈な車となった。ドライブ好きの車オーナーからしてみれば、我慢は出来るが楽しいとは言いかねる車であった。
元々車好きであり、ドライブ好きであった本田宗一郎は、そのことを分かっていた。いや、世界中の自動車メーカーの経営者、開発者も同じ思いであった。それ故に70年代後半から80年代にかけて自動車メーカーは省エネと環境問題に真剣に取り組む一方で、ドライバーを楽しませる車の開発に勤しんだ。
その影響は自動車メーカー側だけでなく、消費者にも多大な影響を及ぼした。すると当時隆盛を誇っていた自動車ジャーナリズムの世界も呼応した。それが1980年から始まった日本カーオブザイヤーである。審査員は著名な自動車評論家、カー雑誌編集長、そして引退したプロレーサーなどである。
第一回目の受賞車は、陸サーファーの必須アイテムと揶揄されたが、中身は誠実なファミリーカーであるマツダ・ファミリアであった。当時高校生であった私は免許も持っていなかったが、この選考は納得であった。特に二回目の受賞車であるトヨタ・ソアラはバブルの幕開けを象徴するもので、憧れの車であった。
日本カーオブザイヤは相応に権威ある賞として世間から認知された。同時に自動車メーカーもその価値を認めて選考委員に対して積極的な営業を仕掛けた。そのせいだと思うが、次第に良い車ではなく、メーカーが売りたい車が選ばれる雰囲気が出てきた。
それでも選考委員には実際にハンドルを握るドライブ好きが多く、またプロレーサーも数多く参加していたため、基本の走りの良い車が選ばれる傾向は守られた。でも、それに対して車の技術重視を訴える意見も出てきた。
かつては欧米の先行する自動車メーカーを追い掛ける立場であった日本の自動車メーカーだが、次第に技術面でも欧米に引けを取らない成果を出すようになっていた。しかし、それは一般ユーザーには分かりづらいものが多かった。それを改めてアピールする場も必要ではないか。
そこで立ち上がったのが第二のカーオブザイヤーと云われる日本RJCである。こちらはメカニック出身の選考委員が多く、独自の立場からその年を代表する車を選んでいる。近年はこちらのほうが良い選考をしているのではないかと思うことも多い。
一方、本家たる日本カーオブザイヤのほうは、やや評判を落としている。大企業たる日本の自動車メーカーにも堂々反論できるような大物自動車評論家の引退もさることながら、縮小していく日本の自動車市場が、メーカーとジャーナリストとの関係を密にしたことも影響があったと思う。
一例を挙げると、マツダはロードスターを一年間無償で選考委員に貸与し、その後は中古車価格で買い戻す手法で高評価を勝ち得ている。これは自動車評論家の福野氏が公表している事実である。ただし、ロードスター自体は非常に良い車で、運転していてこれほど楽しい車は稀だと私は思っている。
でも一年間も乗っていたら愛着沸くよね。もちろん受賞したのだが、正直賞の選考に問題がないとは言えないと思う。現在では、自動車メーカーが売りたい車が優先される傾向が強く、私はあまり良い印象を持っていない。
はっきり云えば、もう日本カーオブザイヤーは存在価値を減じたといって良いと思う。この先、日本国内の自動車市場は縮小していくことは避けられない。そして日本車は既に世界水準で一級の評価を受けていることを考えれば、そろそろ方針を変えた方が良い時期だと思いますね。