長く続いた瀬島龍三伝も、今回が最後です。
昭和の参謀との異名を持つ瀬島龍三ですが、私の印象を一言で云えば「怪物」です。安全な場所から、責任を問われることなく、多くの人、物資を動かして時代を動かして、生き延びてきた。
座談の名手であり、仲介者(フィクサー)として稀有な才幹を持ち、周囲の人々を惹きつける魅力の持ち主。そして、あれだけ多くの実績を持ちながら、金や財産に固執することはなく、一家庭人としての立場を忘れず、生涯を全うした人物でしょう。
でも、それは瀬島の一面に過ぎない。今回、彼が自ら筆を執った回想録を読んでみて分かったのは、彼が書かなかったことを無視しては、決して瀬島龍三は理解できない。
幼少期から少年時代におけるエピソードの薄っぺらさ。小柄で運動の苦手な瀬島少年は、この時期に何を経験したのか。鉄拳制裁が日常茶飯事の陸軍幼年学校において、彼は何を経験し、何に苦しみ、何を求めたのか。
彼の原隊である富山連隊において、青年将校である瀬島は、なにに失敗し、なにを浮黷スのか。東京に行き、陸軍士官学校に通う青年は、そこで何に劣等感を抱き、何に憧れ、何を求めたのか。
表題の自伝では、彼の人格形成におけるマイナスの経験が、ほとんど記述されていない。私はこれほど不誠実な自伝を読むのは初めてだ。それは陸軍の青年参謀としての記述にも、同様な傾向がみられる。
最後に、瀬島を嫌ったとされる田中清玄の自伝におけるエピソードを紹介したい。
田中清玄が入江相政侍従長から直接聞いた話として、昭和天皇の以下の発言を載せている。曰く、「先の大戦において私の命令だというので、戦線の第一線に立って戦った将兵達を咎めるわけにはいかない。しかし許しがたいのは、この戦争を計画し、開戦を促し、全部に渡ってそれを行い、なおかつ敗戦の後も引き続き日本の国家権力の有力な立場にあって、指導的役割を果たし戦争責任の回避を行っている者である。瀬島のような者がそれだ」
表題の自伝では、まるで逆の瀬島評を昭和天皇が語ったかのように記述されている。いったい、どちらが正しいのか?
また伊藤忠商事で活躍した時期、右翼の児玉などとの交流も、自伝では一切記述されていない。それどころか、田中角栄も割愛されている。瀬島が関わったとされる疑惑事件なんて、まるでなかったかのように回想は書かれている。
いったい、瀬島龍三の面の皮は、どれほど分厚いのであろうか。
瀬島龍三は、間違いなく紳士である。暴力沙汰とは無縁であり、到底裏社会の人間とつながりがあったとは思えない。しかし、自伝には書かれなくても、彼が裏社会とのかかわりをもっていたのは事実である。
また、この自伝に限らないが、彼は他人の悪口、悪評などを書かない。感心するほどに、他者へ評は美辞麗句で終わり、恨みとか妬みのようなマイナスの感情を、その文章から読み取るのは不可能に近い。
にもかかわらず彼を嫌う者は少なくなく、瀬島の悪評は数限りなくある。それぞれ、相応の理由があると思われるが、瀬島は滅多に反論することなく、無視することが多い。今回の自伝では、その数少ない反論が記載されている。これは非常に貴重な情報だと思った。やはり、気にしていたのだろう。
私は人物の評価を、その人が何を言ったか、書いたかではなく、何をしたのかで評価するように心がけている。その観点からすると、瀬島龍三は陸軍の参謀として奮闘はしたが、敗戦に終わったわけで、到底名参謀とはいえない。また、なによりも、その無責任ぶりは、心底軽蔑に値する。
彼の同期の参謀たちが、敗戦前後に自害している。自害だけが反省だとは思わないが、その壮絶な最後には、いささかの敬意が生まれる。一方瀬島は、ヌケヌケと彼らの瀬島宛への遺書を公開しているが、当人はそれに倣う気など毛等もなかった。
ただ、心の奥底で少しは気にしていたようだ。それが戦没者慰霊会などへの協力として表れているようだが、それで許してやるほど私は寛容ではない。
また戦後の伊藤忠時代にしたところで、功績はあったが、マイナスの功績も根深く、それはバブル崩壊期に噴出するが、瀬島一人のせいだとはいえないのも事実だ。ただ、せっかくの回顧録なのだから、そのマイナス面も書いてこそ、後世の役に立つと思うが、失敗を認めない瀬島の気性からして無理であったようだ。
常に強い者へ寄り添い、その陰で暗躍することで生き延びた瀬島龍三は、良くも悪くも怪物的参謀であったと思います。8回にわたる、執拗な瀬島評にお付き合いいただき、ありがとうございました。
なお、記事を書く上での参考文献のうち、主なものを上げておきます。「沈黙のファイル」共同通信社取材班、「瀬島龍三 参謀の昭和史」保阪正康、「対日工作の回想」イワン・コワレンコ。