最初に大声で言っておくと、私は瀬島龍三が嫌いだ。
ただ、嫌うならば、正々堂々、論理に照らして相応に嫌わねばならないとも思っている。だから、瀬島氏に関する本は、けっこう読んでいる。ただ、本人の書いた自伝を読むのは、今回が初めてだ。それが表題の書である。
書きたいことが沢山あるので、数回に分けて書きますのでご容赦のほどを。
私が初めて瀬島龍三の名前を耳にしたのは、多分小学生の頃だと思う。当時、住んでいた三軒茶屋の商店街の脇にあった銭湯には、けっこう足しげく通っていた。そこで知り合った初老の男性からだ。
脚が不自由な方であったが、眼光鋭く、鍛えぬいた痩身の男性で、私らガキンチョはこの人の前に立つと、知らず知らず背筋を伸ばしてしまう。でも、笑うと凄く素敵な笑顔を見せてくれる人でもあった。
左肩に仁王様の入れ墨を入れていたが、別にヤクザではなく、表具屋の旦那さんだった。ただ、鉄火場には出入りしていて、そこの庭の掃除をして小遣い稼ぎにしていた私とは顔見知りでもあった。
銭湯の更衣室の内庭には、小さな池と鯉が泳いでいて、風呂上りで火照った体を冷やすために、そこのベンチが置いてあった。そのベンチは、その表具屋の旦那さんの指定席のようなものであった。
ガキだった私は、この旦那さんが戦争で足を怪我したと聞いていたので、ある時興味津々で、足を怪我した時の戦争の話をせがんだ。
一瞬だが、殺気に近い怖さを感じたが、ふっと力を抜いたように表情を緩め、話してくれたのがシベリアでの捕虜収容所の話であった。その収容所で、酔っぱらったロシア兵に膝を撃たれたのが、足が不自由になった原因だそうだ。
その時、初めて瀬島龍三の名前を聞いた。「あの瀬島の野郎が、俺たち下っ端兵士をソ連に差出やがったのが原因だ。俺は絶対、あいつを許さない」と唸るように、吐き出すかのように話してくれた。
以来、私の脳裏には、瀬島龍三=卑怯な奴と刷り込まれている。その後、折に触れ太平洋戦争関連の書籍を読むと、時折この名前を目にすることがあり、私の中では、安全な場所からいい加減な作戦で兵士を死地に追いやり、なぜだか出世した嫌な奴だと認識するに至った。
ところがだ、高校生の時であったが、何故だか瀬島龍三=悲劇のヒーロー的な風潮が出てきた。それが山崎豊子の小説「不毛地帯」の影響だと分かり、私は訳が分からなくなった。
その後、小室直樹や保坂正康らによる瀬島に関する本、あるいは田中清玄や旧ソ連のKGB職員の回顧録などを読むに従い、ますます疑わしく、また怪しく思えてきた。
以来、30年以上かけて瀬島龍三に関する書物を読んできたが、私なりの結論は、限りなく黒に近い灰色に輝く男である。やはり、嫌いだと断言できるが、彼の自伝は読んだことがなかった。
いや、意識して読まなかった。それでは良くない。やはり読んでみて、もっと正確に批判し、嫌ってやろうと思っている。ただ、いざ書きだすと、とてもじゃないが一回や二回では書ききれない。
ちなみに、今回は導入部のつもりで書いている。申し訳ないが、私の我儘で、後数回書き続けます(途中、中断あり)。しばし、お付き合いのほどを。