今月初め、心臓の不整脈で入院して以来、私は週末は可能な限り静養している。
動けない訳ではないが、安静を保つことは古来より心臓病に最も有効だとされており、私もそれに同意しているからだ。また一月は寒さが厳しく、この寒さと暖かさの寒暖の差が心臓に良くないことを痛感しているからでもある。
私は怠けるのは好きだが、じっとしているのはあまり好きではない。だから静養といいつつ、洗濯してアイロンかけたり、水回りの磨き掃除をしたりと結構動いていた。
その間、BGMでラジオを流していたのだが、私の耳に飛び込んできたのが東大の受験会場で起きた惨劇である。また八つ当たり犯罪かと思ったが、詳細がよく分からないので、夜になって落ち着いてからネットで事情を確かめた。
どうやら優秀だった高校生が、成績低下を悩み、なにを想ったのか名古屋から東京まで出てきて、念願だった東大の受験会場で凶行に及んだようである。
いかなる事情でそこまで追いやられたのかは、その時点では不明であった。その後、週刊誌や新聞などの後追い取材で、次第に家庭事情や高校での姿が露わにされているようだ。
嫌な事件だね。
だが、これは別に新しい事件ではない。私が高校生であった1980年にも神奈川で金属バット殺人事件があった。やはり教育熱心であった両親の下で、受験のプレッシャーに耐えきれず、その両親を殴り殺した事件であった。
私自身、受験生となる時期を迎えており、かなり身近に感じた事件ではあった。でも正直に云えば「なんだ、この弱虫は」と犯人を蔑む気持ちのほうが強かった。
そして、何より不快だったのが、当時のマスコミに登場していた評論家とやらの「子供を追い込む社会が悪い」といった風潮であった。この一見、受験生の味方面した善人ぶりっ子が厭らしく思えてならなかった。
私とて受験に対して不安は感じていた。でも、はっきり言うと期待もしていた。なにせ中学時代、学年で下から数えて一桁台の落ちこぼれ出身である。お勉強の出来る連中から散々蔑まれてきた。しかも面と向かってではなく、陰でコソコソと悪口を言う性悪さである。
まァ面と向かって云われたら即座に殴っていたと思う。ちなみに相手が女の場合、殴りはしないが、机をひっくり返すなど乱暴を働きビビらせる程度で済ませていた。今なら立派な暴力だが、当時は「よく我慢した」と悪ガキ仲間からは褒められた。
そんな落ちこぼれ君にとって受験は名誉挽回の絶好の機会であった。そりゃ試験前に不安はあった。でも、私は当時から感じていた。受験勉強って、なんと平等で公平なのだろうと。
悪ガキをやっていれば、自然と思い知るのが世の中の不条理である。どんなに頑張ってもガタイが良くて、力が強い奴のほうが強い。たとえこちらが正しくとも、喧嘩で負ければこちらが悪いとされる。
学校のなかはまだマシだ。外に出て夜の街をうろつけば、もっと理不尽な現実を思い知る。ヤクザはもちろん、たいしたことないチンピラだって油断できない。一番厭らしいのは、優しげに近づいてくる大人であることは十代の初めに既に思い知っていた。
道理も法律もへったくれもない。力が強いものが正しい。騙された奴が悪い。弱いから悪い。不平等で卑怯で陰湿な大人の社会を早くから知っていた。
だからこそ勉強をすれば素直に結果が出る受験は、私にとって公平でチャンスに満ちた絶好の機会であった。幸か不幸か、私の母は勉強をしろとは一言も云わない人であった。金を出してくれた父は、引け目があるのか頑張れは言っても、強要はしてこなかった。
だから私は思うままに、出来る範囲で受験勉強を頑張った。もちろんプレッシャーはあった。国語や歴史は得意だったが、やはり基礎を疎かにした数学がネックだった。中一の頃から真面目に数学をやっていればと後悔した。英語は勉強すればするだけ伸びたが、やはり中学の2年間のさぼりが痛かった。
だから高校受験は苦しんだ。試験の点数は良かったと思うが、内申が悪すぎた。内申の悪さが致命的で、志望の高校はランクを落とさざるを得なかった。これは悔しかった。
それゆえ内申が関係ない大学受験は、私にとって実にありがたかった。ただ、元は落ちこぼれである。やはり遊びの誘惑には弱い。勉強疲れした隙をついて、思わず怠けてしまい現役合格には失敗している。ちなみに誘惑とは賭博、つまりパチンコであるから言い訳にもならない醜態である。
だから浪人が決定した時は後悔の思いが強かった・・・嘘ではないが、実はその後浪人中もパチンコを止められなかったダメ浪人である。幸い、パチンコ屋でトラブルを起して嫌な思いをしたので、それを機に止めている。その後は受験勉強に集中している。
私は一度決めたら断固、それを守る性癖がある。以来、パチンコには手を出していない。でも、受験浪人中の冬の決断であったから、我ながら間抜けであることは自覚している。それだけに残り2か月あまりは徹底的に勉強に励んだ。これで合格という結果を出さなきゃ大馬鹿である。
その意味でプレッシャーはあったが、それを周囲の人間に転嫁するとか、八つ当たりするような卑劣な真似はしていない。自分の弱さや馬鹿さ加減で失敗したのなら、それは自分が悪い。その程度の覚悟はあった。
だから金属バット殺人事件にせよ、今回の東大受験会場の殺傷事件にせよ、犯人に対する同情心は全く持ち合わせていない。
それでも子供に大学合格といった目標しか与えられなかった親の教育に対する疑念はある。私は落ちこぼれ出身だけに、別に学歴に拘らなくても生きていけることを知っていた。事実、私はその方へ進むつもりであったから。
別に大学を否定している訳ではない。ただ、人生における一つの進路に過ぎないし、戦争や大災害など環境が変われば無効化する進路となる可能性も認識していた。その意味で、大学進学一直線の真面目君とは、心持が違ったのは確かだ。
人生、なにをやっても、どんな生き方を選んでも良いはずだ。そのなかで、一つの有力な進路が大学進学であるだけだ。なんで、加害者の親はそれを子供に教えなかっただろうか。その点が少しモヤモヤします。