日本史上、稀に見る仲介者、それが勝海舟だと思う。
はっきり言うと、仲介者は概ね胡散臭い。要は相対する二つの陣営の仲立ちをする役割であり、どちらの陣営からも怪しく思われる損な役割である。また、誰にでも出来る役割ではない。
理想を言えば、清廉潔白で公私ともに裏表がない高潔な人物が望ましい。しかし、理想は理想に過ぎず、多くの場合、無視できぬ武力をもっているか、あるいは巨額の財をなした人物であることが多い。
いずれにせよ対立する両陣営、どちらからも役立つ存在として認識されていなければ仲介者にはなれない。
ところがおかしなことに勝海舟は旗本とはいえ、貧乏侍の家に育ち、30代になりようやく幕府に登用されたに過ぎない。剣術では免許皆伝の腕前ながら実戦の経験はなく、兵法においても軍師とは足り得ぬ。
ただ剣術の修行で培った胆力の持ち主であり、貧乏侍であったが故に市井に詳しく、商売人からやくざ者にまで広い人脈を持つ。それゆえ武士にみられる狭くて頑なな思考とは程遠く、柔軟で広い見識の持ち主であった。
勝海舟を嫌うものは多い。幕府側にありながら政権交代に手を貸した裏切り者である。幕府側にありながら薩摩、長州、土佐と維新側にも人脈を持つ疑わしき人物でもある。
海舟自身も江戸っ子気質の依怙地な性分で、大久保や福沢とは相性が悪かった。それでも江戸城を無血開城に導いた功績は否定しがたい。それが西郷隆盛との個人的友誼に基づくとしても、多くの無辜の民の命を救い、江戸の町を壊滅させなかったことは事実だ。
それが海舟の生涯における頂点だと思われているが、実はその後の半生もまた仲介者として八面六臂の奮闘ぶりであったことは、あまり知られていない。
静岡駿府に居を移した徳川公についていった譜代の武士たちの世話をし、茶畑の開墾事業にも手を貸している。また有能な武士たちを多数、新政府側へ送り込み、新体制の構築と安定に寄与させてもいる。
また維新政府の初期は政府としてまともに機能せず困り果てた大久保や木戸の相談にのり、新政府の提体を構築させることにも奮闘している。日本を諸外国から守るための海軍の創設と育成に勝海舟の経験と知恵は必要不可欠であった。
これは勝海舟に限らないが、旧幕府側の有能な官吏の努力なくして明治政府はまともに機能しえなかった。勝嫌いで知られる大久保でも、その有用さは否定できず、幾度となく勝に無理難題を押し付けている。
もっともその難題を解決するたびに、却って嫉妬と猜疑心を買ってしまったのは、勝の依怙地さによる部分も大きいと思う。なお、彼の功績の一つは、明治新政府の組織の成り立ちなどを書にして残していることが挙げられる。勝の残りの半生は、書を記すことに多大な時間を費やしている。
そのなかでも陸軍の成り立ちを記したものは印象深い。勝によれば、明治の陸軍は諸外国に対するのではなく、国内の反対勢力に対するものとして構築されてきたという。いくつか思い当たる節があるので、いずれ調べてみたいと考えている。
だが勝海舟の真価というか、彼の最後の仕事は、やはり徳川家と明治天皇との和解であった。この困難な会合を実現した後、勝はようやく長年の課題を終えて安心したようで、あっさりと死を迎えている。彼は死の直前まで仲介者であったようだ。
歴史の評価はけっこう残酷で、勝海舟も節操のない怪しいコウモリ扱いされることも多々ある。それもまた一面の事実だと思うが、勝本人は誰になんといわれようと気にせず、己の信じた役割に殉じた信念の人であったと思います。
はっきり言うと、仲介者は概ね胡散臭い。要は相対する二つの陣営の仲立ちをする役割であり、どちらの陣営からも怪しく思われる損な役割である。また、誰にでも出来る役割ではない。
理想を言えば、清廉潔白で公私ともに裏表がない高潔な人物が望ましい。しかし、理想は理想に過ぎず、多くの場合、無視できぬ武力をもっているか、あるいは巨額の財をなした人物であることが多い。
いずれにせよ対立する両陣営、どちらからも役立つ存在として認識されていなければ仲介者にはなれない。
ところがおかしなことに勝海舟は旗本とはいえ、貧乏侍の家に育ち、30代になりようやく幕府に登用されたに過ぎない。剣術では免許皆伝の腕前ながら実戦の経験はなく、兵法においても軍師とは足り得ぬ。
ただ剣術の修行で培った胆力の持ち主であり、貧乏侍であったが故に市井に詳しく、商売人からやくざ者にまで広い人脈を持つ。それゆえ武士にみられる狭くて頑なな思考とは程遠く、柔軟で広い見識の持ち主であった。
勝海舟を嫌うものは多い。幕府側にありながら政権交代に手を貸した裏切り者である。幕府側にありながら薩摩、長州、土佐と維新側にも人脈を持つ疑わしき人物でもある。
海舟自身も江戸っ子気質の依怙地な性分で、大久保や福沢とは相性が悪かった。それでも江戸城を無血開城に導いた功績は否定しがたい。それが西郷隆盛との個人的友誼に基づくとしても、多くの無辜の民の命を救い、江戸の町を壊滅させなかったことは事実だ。
それが海舟の生涯における頂点だと思われているが、実はその後の半生もまた仲介者として八面六臂の奮闘ぶりであったことは、あまり知られていない。
静岡駿府に居を移した徳川公についていった譜代の武士たちの世話をし、茶畑の開墾事業にも手を貸している。また有能な武士たちを多数、新政府側へ送り込み、新体制の構築と安定に寄与させてもいる。
また維新政府の初期は政府としてまともに機能せず困り果てた大久保や木戸の相談にのり、新政府の提体を構築させることにも奮闘している。日本を諸外国から守るための海軍の創設と育成に勝海舟の経験と知恵は必要不可欠であった。
これは勝海舟に限らないが、旧幕府側の有能な官吏の努力なくして明治政府はまともに機能しえなかった。勝嫌いで知られる大久保でも、その有用さは否定できず、幾度となく勝に無理難題を押し付けている。
もっともその難題を解決するたびに、却って嫉妬と猜疑心を買ってしまったのは、勝の依怙地さによる部分も大きいと思う。なお、彼の功績の一つは、明治新政府の組織の成り立ちなどを書にして残していることが挙げられる。勝の残りの半生は、書を記すことに多大な時間を費やしている。
そのなかでも陸軍の成り立ちを記したものは印象深い。勝によれば、明治の陸軍は諸外国に対するのではなく、国内の反対勢力に対するものとして構築されてきたという。いくつか思い当たる節があるので、いずれ調べてみたいと考えている。
だが勝海舟の真価というか、彼の最後の仕事は、やはり徳川家と明治天皇との和解であった。この困難な会合を実現した後、勝はようやく長年の課題を終えて安心したようで、あっさりと死を迎えている。彼は死の直前まで仲介者であったようだ。
歴史の評価はけっこう残酷で、勝海舟も節操のない怪しいコウモリ扱いされることも多々ある。それもまた一面の事実だと思うが、勝本人は誰になんといわれようと気にせず、己の信じた役割に殉じた信念の人であったと思います。