現在、ウクライナの置かれている状況に同情を抱く気持ちに嘘はない。
でもウクライナが正しいかと云われると、正直けっこう迷う。現在の大統領及び国民の大半が反ロシアであることはわかる。しかし、過去は違っていた時期もある。
ウクライナは農業大国であると同時に、実は旧ソ連の軍需工場を数多く抱えた工業国でもあった。だが石油や天然ガスはロシアからの輸入頼りである。これがロシアとの癒着を生んだ。
ソ連邦が崩壊して以降、ウクライナは主要な軍事関連の施設などを接収されたが、石油や天然ガスの輸入に関して親ロシア派の公的企業が独占した。この利権はおこぼれが多く、ウクライナに新たな富裕階級を生み出した。当然に政府は親ロシア寄りであった。
しかし、一応は民主化したウクライナでは、この親ロシア寄りの政権は庶民から恨みを買っていた。だから国政選挙があるたびに反ロシアを掲げ、西側との交流を増やす政治勢力が支持を拡大させた。
現在の大統領がその典型なのだが、だからといって親ロシア派が一定数いることも確かである。
実のところ、ウクライナは数年前からNATOへの加盟申請を行っている。しかし反対があるため認められずにいるのが実情である。なぜ反対するのかといえば、やはり信用できないからだ。
親ロシアのティモシュンコ大統領もいたし、オレンジ革命で有名なユシチェンコ大統領もいた。ウクライナの政権は変わるたびに揺れ動く。だからこそ、NATO内部でも、その加盟申請に疑問を呈する国が出ていた。
おまけにウクライナはロシアン・マフィアの本拠地として悪名高い。ソ連邦が崩壊した時、核兵器が流出したことは知られているが、それに関わっているとされるのがロシアン・マフィアである。イランや北コリアへのミサイル技術の流出を主導したのは彼等であるとされている。
特にソ連で多用されていた黒鉛型軽水炉タイプの原子力発電所に関わっている技術者が多数ウクライナに居て、彼らがイランや北コリアの原発施設に関与していると噂されていた。
もちろん彼らにも言い分はあろうと思う。ソ連解体後の経済混乱の最中に食べていくには、ミサイルだろうと原子炉だろうと金になるなら何でも良い。崩壊した社会主義国は多くの場合、金と宗教に走るからその典型的な例だと思う。
だからこそ信用されていない。ユーラシア大陸の東側において核兵器だけが頼りの北コリアは、ある意味ウクライナの支援の結果だと思う。おかしなことに、日ごろ反原発、反核兵器を謳うマスコミ様は、このウクライナの疑惑について最近はだんまりを決め込んでいる。
いくらマスコミ様が黙殺しようと、私は素直にウクライナが正しいとは思いえないのです。まァアメリカが支援している以上、それに背いてまで反対しろとまでは言いませんけどね。
3年前、道志村のキャンプ場から姿を消した女の子の遺骨かもしれない骨が見つかった。
生存を信じていた家族は悲痛な思いであろうと覗える。人の生死にかかわる事であり、安易な憶測記事は書きたくない。が、先日、日本TVのバンキシャという報道系番組の動画がアップされていたので、思うところがあり書き記してみる。
道志村は道志山塊と丹沢山系に挟まれた谷地にある。東京からだと八王子の南、相模原あたりから山梨の山中湖あたりに抜ける県道413号沿いにある。東京に近いが、それでも過疎はかなり進んでいる。
そして道志山塊(と、私たちは呼んでいた)は里山である以上に地味な山で、私が登っていた昭和の頃でも、さほど人気のある山ではなかった。もっとも藪山、里山を楽しめる山であり、冬でも比較的安全に登れる。ただし谷沿いの山なので、かなり寒い。
私は道志山には高校生の頃に一度、裏丹沢には大学生の頃に一度登ったきりだ。それでもあの地域の山の厄介さは分かっている。決して標高は高くないが、かなりのベテランでも迷いやすい山だと断言できる。
実際、私も迷っている。なにせ山道が多過ぎる。地元の方が仕事で使う道なので、不人気な登山道よりもよほど歩きやすいからだ。おまけに広葉樹の樹林帯なので落ち葉が半端なく多い。これが曲者だ。
この落ち葉が積もった山道は、想像以上に滑り易い。表面は乾いていても、裏側が濡れているので、うかつに踏むとすぐ滑る。これが急斜面だと滑落の危険がある。
私は日本TVのバンキシャという番組が嫌いではない。むしろ報道の在り方の一つとして高く評価している。でも、この道志村での少女行方不明を扱った番組で担当した記者は、おそらく登山の素人だと思う。
なにせ林道と山道、登山道の区別が付いていない。だから見当違いの映像を撮っていることが明白だった。これは藪漕ぎなどをする登山者ならば分ることだが、一般に車、特に軽自動車が走れるような道は概ね林道である。舗装されていないのが普通だ。
一方、地元の人が里山整備、キノコの栽培や山菜取りに使うような山道(杣道ともいう)、登山が目的の登山道、更に動物が使う獣道などは標高の低い山ほど明白に区別されていない。猪やクマ、シカなども人間が使う山道や登山道を使うからややこしい。
私は標高2千メートル以上の山で道に迷ったことはない。しかし、標高が低いながらも山道が数多くひかれた里山や低山などでは、幾度となく道に迷った経験がある。日本では標高の低い山のほうが迷いやすいのが実情だ。
三年前に行方不明となった女の子だが、現在までの遺骨や衣服、靴などが枯れ沢で見つかったとの事。推測になるが、山道に入り込み、斜面で滑落して亡くなったのではないだろうか。
枯れ葉の中に埋もれてしまい、見つからなかったのではないだろうか。それが雨により流されて、枯れ沢に墜ちていって見つかったのではないかと思う。もっともまだ確定ではないので、より一層警察の科学捜査に期待したいですね。
追記 5月13日の報道で、遺骨からミトコンドリアDNA鑑定により母親との親族関係がありだと報じられていました。残念な結果です。
人は弱い生き物だ、誰にだって心の隙間はある。
この満たされぬ隙間は、たとえ小さくとも、気になって仕方がないものだ。この隙間から幸せは逃げていくし、幸運も失われてしまう。残るのは不平不満だけだ。
私にも大きな心の隙間があった。難病により健康と未来と希望を失った時だ。この絶望はあまりに大き過ぎた。隙間というよりも巨大な陥穽であり、暗く深く冷たい心の亀裂であったと思う。
あまりに絶望が大き過ぎ、また深すぎたが故に、この心の隙間を埋めることなんて出来やしなかった。だから私は開き直り、不貞腐れて布団に潜り込んだ。傷ついた野性の獣がそうするように、ひたすら横たわり、身体と心を休めた。
何か月、そうしていたことだろう。いや、それは数年単位に及んだ。よくぞ、あれほど寝ていられたものだと思う。いくらでも眠れた。夢は沢山みたし、そのなかには悪夢といっていいものもあった。でも起きたら忘れてた。その痕跡は心の空洞として、私を無感傷にさせたから、悪夢をみたことだけは覚えている。ただ中身を思い出せないだけだ。
正直にいえば、悪夢だけではなく楽しい夢もみた。ただ、そんな夢を見た後の虚脱感も又、なんとも云えぬ味気ないものであった。夢の中味を思い出せないことは、ある意味幸せだったのかもしれない。
だがひたすらに身体を横たえ、静かに眠っていたことが、病気の治療につながったのかもしれないと、今にして思う。自覚はなかったが、私の体内では、衰えた内臓が徐々に回復していたらしい。
気が付いたら、寝ているのが苦痛になってきた。私は徐々に外の世界に足を踏み出した。これは嬉しくもあり、苦しくもあった。私は歩くのが速いはずであった。しかし病み衰えた身体は、老人のような歩みを私に強いた。
またこれは薬の副作用であるが、免疫力が衰えていたので、すぐに風邪を引いた。電車のなかで、10メートル以上離れていても誰かが咳をしていると、その日の夜には発熱した。驚くほどに感染症に弱い身体になっていた。
働き出してから3年ほどは、週末になると発熱して寝込んでいた。苦しかったが、不思議なことに心の隙間は徐々に埋まっていくのを実感していた。9年あまりの休眠生活から抜け出し、新たな人生を埋めていく喜びが苦痛に勝ったからだ。
そんな私なので、喪黒福造が嫌いだった。誰にだって心の隙間はある。それを埋める商品を売りつけるセールスマンの喪黒は、私からみると人の弱みに付け入る悪徳セールスマンに他ならなかった。
でも今だから云える。本当は嫌いだったのではないと。私の元にこそ来るべきだと妬んでいた。多分、自宅で寝込んでいた療養期ならば、私は意図も容易に喪黒のセールストークに引っかかった可能性がある。
もっとも当時、私のもとにやってきた心の隙間を埋めると称するセールスマンは、宗教関係ばかりであった。宗教には免疫があった私は、これには引っかからなかった。だから喪黒も突っぱねた可能性もある。
おそらくだけど、喪黒は自分の客が大嫌いだと思うな。
そんな傑作漫画を描いた藤子不二雄A氏がお亡くなりになった。あまり好きな作風ではなかったけれど貴重な人だと思います。
合掌。
時代の流れは、時としてかなり残酷だと思う。
1970年代初頭のことだ。突如出現したソ連の新型戦車は西側諸国をパニックに陥れた。低い車高、当時最強とされた125ミリ滑空砲を備えた戦車、それがT72であった。
低い車高は傾斜装甲と相まって被弾による損傷を減らす。NATOの見解では、当時の西側の戦車では命中させて撃破することは難しいとされた。105ミリライフル砲を標準装備していた西側の戦車は、大急ぎで125ミリ砲の研究を始める始末であった。
当然にワルシャワ機構軍には優先的に配備された。もちろんソ連の友好国にも大量に輸出されたことは言うまでもない。その過程で見つかったT72の弱点は、車高が低いが故に運転席が狭く、小柄な兵士でないと操縦できないことぐらいであった。
当時、プラモデル好きであった私はT72戦車の模型を好んだのも当然であった。実際、けっこう格好のよい戦車だと思う。ちなみに配備されたばかりの日本の74式戦車ではT72に対抗できないとされ自衛隊は殊更怖れた。
この恐ろしい戦車に対抗するため新たに開発されたのが、アメリカのM1エイブラムスであり、イギリスのチーフテン、フランスのルクレール、そしてイスラエルのメルカバである。
いずれも車重が60トン近い大型戦車であり、装甲は当時の最新技術である複合装甲やりアクティブ装甲が採用された。ちなみにT72の車重は41トンである。これは雪解けの泥道でも自由に動けるギリギリの重量とされていた。
はたしてT72と西側の最新鋭戦車とでは、どちらが強いのか。その結論が出たのが湾岸戦争であった。イラク軍のT72は、面白い様に撃破された。しかし、疑問符もついた。湾岸戦争はスティルス戦闘機によりイラクの防空網を突破し、通信設備を破壊されたため、大混乱に陥ったことが、イラクの敗因であった。
イラクの戦車隊は敵がどこにいるのかさえ分からず、一方的に撃破された。だからこそ、T72は敗れ去ったとされる。現代戦が電子情報戦だと云われる所以である。しかし戦車単体では、さほど欠点があるとは思われていなかった。
それゆえにT72は、旧ソ連の衛星国などで21世紀に入っても第一線の戦車として運用されていた。アメリカなどの最新鋭戦車には勝てなくとも、国内の内戦やテロ組織への攻撃には十分だと思われていたからだ。
しかしご存じのとおり、ロシアのウクライナ侵攻によりT72戦車は歩兵にも撃破される羽目に陥った。いろいろと原因はあるが、最大の弱点は戦車の上部、天井部分が脆弱なことだ。おまけに砲塔内部に砲弾を保管するだけでなく、車体の床にも砲弾を保管しているため、西側の最新の携行型対戦車ロケット砲が上空から落ちてくるかたちで命中すると、ビックリ箱のように爆発してしまう。
ロシアにとって不幸だったのは、ウクライナ軍はT72の弱点を熟知していたことだろう。1970年代に基本設計がされたT72は、第二次世界大戦の頃の最強戦車T34の延長線上の完成系であった。あまりに古すぎたとしか言いようがない。
ちなみに西側の最新鋭戦車は、トップダウン型の携行ミサイルを想定して、近接防御専用の対抗兵器を備えている。この分野ではイスラエル及びアメリカが抜きん出ていると思う。フランスやイギリスもそれに追随しているはずだ。
そして旧ソ連製の兵器を中心に据えた陸軍を保有する国々は、声には出さないが内心恐慌状態にある。特にシナや北コリアは顔面蒼白だと思う。特に北コリアにとって虎の子の主要戦車がボンクラだと分かった以上、その焦りは相当なものだと思う。
だからこそ、現在北コリアはミサイル発射実験に躍起になっている。核兵器に今まで以上に傾倒することが明白である。我が国としては、当然に対ミサイル防御に力を注ぐ努力が求められると私は思いますよ。まァ米軍との協調が第一ですけどね。
御飯のおこげって美味しいと思いだした。
まだ終息した訳ではないが、久々の自粛宣言のないゴールデンウィークである。もっとも私は二度の入院のせいで遅れた仕事を通常に戻すため、連日出勤している。
3年余りのコロナ禍で銀座界隈の飲食店は、かなり被害を被り閉店に追い込まれた店も少なくない。私が昼時に通っていたランチが安くて美味しいお店など、8割がた閉店の惨状である。
毎年、春先になると私は割烹料理の店で、季節料理の一つである筍ごはんを頂いていた。ところがそのお店が閉店してしまった。おかげで春の旬の名物である筍ごはんを食べる機会を失って二年である。
好き嫌いの少ない私だが、どうしても筍ごはんを食べたくなった。そこで初めて自宅で作ってみた。生の筍はあく抜きに自信がないので、水煮した筍を買い、後はレシピに従いご飯を炊くだけだ。
その結果、炊飯器にご飯のおこげが出た。これは久々であった。ちなみに我が家の炊飯器はガス炊飯器であり、私が小学生の頃から使っている年代ものなので、あまり器用なことは出来ない。でも、普通に白米を炊くには問題ない。
だからこそ、ご飯のおこげは久々であった。多分、学生の頃、山に登りテントで大鍋を使ってご飯を炊いていた時以来だと思う。もちろん、筍ごはんとしても十分美味しかったが、それ以上にご飯のおこげが懐かしくて気に入ってしまった。
考えてみれば、昼飯を食べに行く銀座界隈の飲食店では、ごはんのおこげなんて客に出す訳がない。おかげで、その美味しさを忘れてしまった。まァ客観的にみれば、おこげ混じりの私の筍ごはんよりも、割烹料亭で出される筍ごはんの方が上品に美味しいと思う。
それでも学生時代、鍋を抱えてご飯のおこげを奪い合っていた懐かしい味は、そう悪いものではなかったと思いましたよ。