ヌマンタの書斎

読書ブログが基本ですが、時事問題やら食事やら雑食性の記事を書いています。

プロレスってさ デイビーボーイ・スミス

2022-05-10 12:55:32 | スポーツ

憧れが失望に変わると、人は案外と残酷になれるらしい。

そう考えて裏切ったのがデイビーボーイ・スミスだと思う。ファンのみならず、同業のプロレスラーからも敬意を払われたイギリスのダイナマイト・キッドの親戚であったスミスは、子供の頃からキッドに憧れていた。だから当然にプロレスラーになりたがった。

キッドに助言を請い、身体を鍛えてカナダに渡り、カルガリーをテリトリーとしていたハート一族に気に入られて活躍。その実力を認めたダイナマイト・キッドとタッグを組み、日本ではブリティッシュ・ブルドッグスとして人気を博した。

キッドのスピードとタフネス、スミスの怪力とラフなレスリングの組み合わせは、目の肥えた日本のプロレスファンにも高く評価された。二人はやがてプロレスの本場アメリカに渡った。そして最も派手で人気もあったNYのWWFで活躍した。

もちろんリーダーはキッドであり、スミスは弟分というタッグチームであった。実際問題、実力から言ってもキッドがリーダーであることに問題はなかった。だが、小柄なキッドは相当に危ないプロレスをやり続けた結果、満身創痍となっていた。

加えて大男が珍しくないアメリカのプロレス界でやっていく以上、ステロイド剤を服用して筋肉を肥大させたことと、鎮痛剤の濫用から心身ともに荒れるようになっていった。

そんなキッドを醒めてみていたのがスミスだった。幼い頃から憧れたプロレスラー、ダイナマイト・キッドの痛ましい姿に徐々に野心が芽生えていったはずだ。スミスの配偶者は、ハート一族の出であり、彼女も背中を押したと思う。

スミスは「ブリティッシュ・ブルドッグス」の商標を勝手に取り、無断でコンビを解消して日本に渡った。プロモーターである馬場に「キッドはもう満身創痍でプロレスは出来ない」と伝え、シングル・プレイヤーとしての自分を売り込んだ。

なにも知らなかったキッドは激怒したが、もう身体が自由にならなかった。気が付いたらキッドはプロレス界から姿を消していた。事の真相が分かってきたのは、キッドが車椅子姿となり、人々の前に姿を現してからだ。

ところでスミスは成功したのか。ある程度の活躍をしたことは確かだ。常に苦虫を噛んだような渋い表情のキッドに対し、スミスは笑顔が似合う好青年であり、実際女性人気は高かった。

だがその人気は長続きしなかったように思う。その喧嘩強さから敬意を払われていたキッドと異なり、スミスの派手なパワー重視のプロレスラーぶりは、案外と他のプロレスラーから嫉妬されたように思う。怖いキッドがそばに居ないのならばとスミスは攻撃を過度に受けることが多かったように思う。

スミスもまた怪我を重ね、気が付いたら薬物依存が高まり、遂には突然死であった。まだ若かった上、年長のキッドよりも先に逝去してしまった。スミスの葬儀にキッドは顔を出さなかったと伝えられる。

スミスは彼なりに自分の人生における成功を望んでいた。イギリスの貧しい労働者階級の子から、華やかなプロレスのリング上でスター選手として輝いた彼は、たしかに成功者として顔を持つ。

心身共に傷つき荒れていたダイナマイト・キッドから離れた方向性は間違っていなかったと思う。ただ、その離れ方が不味かった。恩人でもあったキッドを切り捨てた遣り口は、口には出さないが少なからぬ関係者の不興を買ったのではないか。

「ダンスは一人では踊れない」と語ったのは、ニックボック・ウィンクルであった。AWAのチャンピオンとして長く活躍したニックは、プロレスが周囲の人間との協調が大事であることを熟知していた。

喧嘩上手なキッドは、案外と仲間作りも上手かった。そのあたりを学ばなかったのは、スミスの失敗の原因ではないかと思うのです。

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あすなろ物語 井上靖

2022-05-09 09:27:52 | 

多分、小学生の時の課題図書が表題の書であった。

嫌な本だと思った。負け犬の嘆きだと感想文に書いたら担任の先生から大人になったらもう一度読んでみなさいと言われた。

あまり先生の言うことを聞かない子であったが、不思議とその言葉は覚えていた。ただ好きな作品でなかったので、当然に読み返すことなどしなかった。

しかし作者の井上靖はかなり好きな作家である。そう考えると、嫌っていたこと自体ある意味不思議、不可解であることに気が付いたのは、わりと最近のことだ。

なんとなく児童文学だと決めつけていたせいだとも思うが、やはり小学生の頃の嫌な印象が強かったことが、読まずにきた原因だと思う。なお、小学生の頃に読んだものは、子供向けに抄訳されていたかもしれない。そう気が付いたので、これは是非とも再読せねばと古本屋で買い込んであったが、例によって未読山脈に紛れこんでいた。

そこでようやくの再読であった。

率直に云えば、自身の幼稚さに呆れてしまう。誰だって翌檜だ。いつの日にか檜になりたいと思いつつ、決してなれずにいる。檜には檜の役割があり、翌檜には翌檜の役割がある。

憧れを抱くのは良い。しかし、憧れが実現しなかったからといって卑下する必要はない。成功には幸運が必要だが、失敗には必ず原因がある。その失敗を正しく認識して次に活かすことこそ王道だ。

作者である井上靖は迷走した半生を送ったのは間違いない。しかし、迷い悩みつつも、自身の半生を冷静に省みて、その経験から作家となった。彼の子供時代に作家という檜の未来は見えなかったと思う。だから、檜になれない自分を自虐しつつも、翌檜の木として立派に育った。

余談だが、檜が高級木材であることは有名だが、翌檜もまた貴重な高級木材である。ちなみに檜は世界中にあるが、翌檜は日本特産の木である。使い方によっては、檜よりも有能な木材でもある。

ところで私は翌檜であろうか。正直、あまり自信がない。そろそろ自身の寿命の終わりを意識しなければならないが、未だ檜になれずにいる。せめて立派な翌檜として人生を終えたいものだ。

出来るかな?ちょっと自信がない私です。

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オシム氏の死去

2022-05-06 09:48:57 | スポーツ

2004年の頃だと思うが、JEF市原の試合後の監督会見は面白かった。

なにせJEFのHPに会見録がアップされるほどに人気があった。原因は当時の監督であったオシム氏の絶妙にして洒脱な話しぶりであった。

曰く「ライオンに追われるウサギは肉離れを起こさない」と言って怪我の多い選手たちを戒めた。

曰く「走り過ぎても死なない」と言い切り、走る重要性を訴え続けた。

事サッカーに関してはいくらでも話せる人であった。スポーツ記者の中にはオシム学校と称して、その会見をサッカーを学ぶ場として捉える人もいたという。

反面、中途半端な知識のスポーツ記者には厳しく、半泣きで帰社したスポーツ記者もいたという。

ユーゴスラビア最後の代表監督であり、民族問題、政治問題に振り回された過去を持つだけに、サッカー以外の質問には寡黙であった。曰く「報道は戦争を引き起こそうとする」である。ユーゴ紛争の本質を良く分かっていたのだろう。

そのオシム氏が5月1日に亡くなった。

日本代表監督数あれど、これほど選手たちに影響を残した人は稀だと思う。オシム監督は、それまでベンチ要員であった遠藤をレギュラーに引き上げた。ユース時代から常に代表に呼ばれながらも、黄金世代のなかにあって埋もれた逸材であった遠藤は断言する「俺を成長させてくれたのはオシムや」と。

欧州の地で活躍していた中村俊輔は遠藤に国際電話でオシム・ジャパンの状況を訊くと、遠藤曰く「身体よりも頭が疲れるトレーニングだ」と話し、それを聞いた俊輔は是非とも練習に参加したいと切望したという。

他にも数多くの日本代表選手たちがオシムの指導力を褒めている。あの突然の心筋梗塞での監督退任がなければ、日本代表はどうなっていたのだろうと語るJリーガーは多い。

私自身、一番ワクワクして日本代表の試合を見ていたのがオシム時代である。あれほどピッチを広く使い、選手が躍動する試合をしていたのは、オシムの指導の賜物であったと思う。

参考までに私が推すオシム・ジャパンのベストマッチは、2007年のオーストリアでのスイス戦です。4―3での逆転勝利、身長体格パワーで上回るスイスを、走って、かわして戦術的有利な局面を繰り返し作っての逆転劇。

前半こそ圧倒されていましたが、ハーフタイムで建て直したオシム監督の采配は見事。多彩な戦術の引出しを持っていたオシムが名監督であることを選手が納得した試合でもありました。この試合、ユーチューブにもアップされているので、是非ご覧ください。

考えて走るサッカーの伝道者であったイビチャ・オシム氏の訃報に謹んでご冥福をお祈りしたいと思います。

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語っておきたい古代史 森浩一

2022-05-02 12:14:34 | 

私は活字中毒だと思っている。

だからこそ気を付けねばならないのが、文章による情報を過信することだ。

私は十代の頃、山登りに傾倒していたが、やはり活字中毒の性分から登る前にはガイドブックや地図を熟読していた。そして実際に登ってみて、事前の知識と現場の違いに頭を抱えた。

なかでも思い出すたびに赤面しそうになるのが南アルプスの早川尾根だ。夜叉神峠から登り出し、有名な鳳凰三山までは良い。で、その後は早川尾根を縦走して甲斐駒岳を目指す。

なに?早川尾根って。私はガイドブックに地名を見つけた時から馬鹿にしていた。なんだよ、尾根って。わざわざつける名称かと訝った。国土地理院の地形図をみても、なんてことのない尾根筋である。要は著名な甲斐駒岳へのアプローチに過ぎない。そう思い込んでいた。

ところがいざ登ってみると、早川尾根は私が縦走したなかでも屈指の展望を誇る素晴らしい山道であった。もちろん晴天に恵まれたことも大きいが、南アルプスの主要な山の展望が見事なのだ。

実を云えば、この山行は一年生をしごく目的の合宿であった。目的は「克己」すなわち己に克つである。実際、先行するAパーティは縦走路を先輩たちの怒声のもと、ボロボロになりながら登っていた。なかには胃液を吐きながら四つん這いで登っている奴もいる。

吐いている奴を登らせるなよと冷静に見ていた私だが、二日後に足を挫いて、その痛む足で南アルプス・スーパー林道を駆ける羽目に陥った。なんで走らないといけないのだと内心不満たらたらであったが、左右を先輩に挟まれて無理やり走らされて惨めな思いをした。

ちなみに、その時走るにつれてザックが揺れるのだが、その揺れで背中の皮膚が摩擦で血だらけとなっていた。それを知らずに、合宿終了後麓の温泉に入って、痛たたたとのたうちまわった。先輩たち、教えてくれず、笑っていやがったぞ。まったく、なんちゅうクラブだ。

と、散々な合宿であったが、早川尾根の展望の素晴らしさは、その嫌な記憶に勝るものであったことは確かだ。以来、読んだだけでは分からない、やはり現地に行って登って、この目で見なければ分からないと痛感したものである。

表題の書は、考古学者である著者が長年にわたり発掘に携わり、日本書記や魏志倭人伝などの書籍による古代史との違和感について書かれている。私自身、活字中毒であるから分るのだが、どうも活字で書かれた情報を過度に信用してしまう傾向がある。

文献が少ない古代日本史の場合、その文献を読み漁るだけでは足りないのではないか。古代の日本の歴史を理解しようとするならば、もっと現場に赴くべきなのだろう。

もっとも東京で暮らす私にとって、関西はいささか遠い。でも最近は地図帳を買って、関西の土地勘を高めようと思っています。

でも、古代日本史の理解に関して最大の障壁は、森先生が述べているように、やはり宮内庁でしょうね。天皇陵の発掘を妨げる宮内庁の存在が、古代日本史の探求における最大の壁となっている。

これは世論の後押しと、政治的な決断が必要だと思いますね。

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