入笠牧場その日その時

入笠牧場の花.星.動物

      ’25年「冬」(2)

2025年01月04日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

     道路の右は池の平で、積雪はまだこの程度

 そういうわけで、上の積雪の状態に加え、体調も新たな不安となる中を30日、家を出たのは8時を少し過ぎていた。
 
 ある程度の雪は覚悟して、荊口、芝平と進む。雪景色の美しい第1堰堤には珍しいことにテントが1幕張られていた。ただし、河原にまで車を乗り入れてはいなかったからそれなりの配慮はしていると観た。
 先行する車が2台。その轍を追い「オオダオ(芝平峠)」まで上がり、さらにそのまま上に向かった。「池の平」、「焼き合わせ」を過ぎ、雪の量は増えてきたが、この辺りまで来て、余程のことがなければ牧場までは行けるだろうと安堵しつつ、同時にまたどこでその楽観が裏切られるかも知れなと用心した。

 結局、一番の難関の「ド日蔭の大曲」は問題なく過ぎ、最も苦労したのは牧場に入ってからだった。特に「初の沢」の下段の大曲りから先は積雪量も増え、さらに入笠登山口へ向かう道と分岐する「弁天下」の三差路から小屋に至る雪道は雪道に慣れていない車のせいで予想以上に荒れていた。
 小屋に着いたのは10時を回っていただろう。最悪の場合、途中から車を捨てて米、野菜、肉などの荷揚げも想定して山スキー一式と、スノーシューズを用意していたが幸いその必要はなかった。

 いつもなら、ここで日当たりの良い管理棟の入り口で椅子を出し、ドロドロのウイスキーを飲むはずだったがその気にならない。やはり体調のせいだったかも知れない。
 それよりか水源のことが気になり、現場に行ってみた。いつもより水量の細くなっているのが気になり除雪してから半切りのドラム缶の底に埋まっているバブルを全開し、ついでにただ何となくホースの先からほとばしる水を飲んでみた。
 驚いた。その味は水と言うよりか全く別な代物だった。その冷たさ、甘さ、身体全体に広がる爽涼感、「独りだけのウイルダーネス」の著者はアラスカの水の美味さを高級ワインと比較していたが、そんな物とは比較にならない。あの人は本の中でアルコールを飲む場面を描いていないし、多分飲めないか、詳しくはなかったと思う。

 真夏でも、熱いコーヒーは飲む。しかし、愛飲するビールは水分補給には役に立たないらしいからそれは問題外で省くと、牧場の仕事ばかりか、テイ沢や法華道、北原新道の整備などでも水を持っていくというようなことはしない。
 そういう人間が、久しぶりに飲んだ入笠の水に感動し、ウイスキーばかりかビールにも手を出す気にならなかったというのだから、これをどう説明したらいいのだろう。(続く)
 本日はこの辺で、明日は沈黙いたします。
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      ’25年「冬」(1)

2025年01月03日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 新年あけましておめでとうございます

 昨年は、年末の挨拶もできないまま年を越してしまい、大変に失礼しました。本年は例年にも増して入笠牧場の先行きを案じていますが、この呟きは続けていきますのでよろしくお願いいたします。
            令和7年元旦

 年末も押し迫った28日、午後の3時過ぎだったと思う、大体このころに「座る」ようにしているが、この時はいつになく集中でき、時の経過を知るための線香を一度も見ないまま、気が付いたらそれが燃え尽きていた。気を良くして立ち上がったとたんに、左下腹部に鈍痛に近い違和感を覚えた。
 
 夕方、食事の用意をしているうちに痛みはさらに増し、吐き気さえ感じるに至って少し慌て始めた。まだその時は、身体の異常の原因をつかめないまま我慢し耐え続け、はて、それからどうしたのだろう。
 とにかく布団に入り、痛みに耐えるしかなかった。その夜は深い眠りに入れぬままあれこれ考えているうちに、思い出した。
 過去に2回、似たような左脇腹の痛みを経験していて、その一度目は20代、まだ学生で、2度目は約30年後、信州で暮らし始めて間もないころだった。最初の時は救急車を呼んで入院したが、病院に入る前に痛みが消えて1週間後何もなく退院した。
 二度目も、友人の車で運ばれ、救急病棟に着くかつかぬかで痛みが去って、この時は入院を免れた。そして今度、忘れもしない独特の痛み、腎臓結石である。

 翌日29日の日曜日、耐えきれずに朝の10時ごろか、自分で車を運転して市立中央病院まで行った。寒い日で、その間ずっと考えていたことは、もし入院でもさせられたら困ったことになるという一事だった。入笠で越年のため、3組6名の予約者がいたからで、最悪の場合でも入院だけは避け、痛みを散らせてもらい上に行くつもりでいた。
 ところが驚いた。ようやくたどり着いた救急病棟には20名ぐらいがすでに居て、なんと待ち時間は2時間と掲示されているではないか。受付の女性は、それなりの対応をしてくれたが、諦めて帰ってくるしかなかった。

 そんなことがありながらも、痛みが薄れ、30日には上に行き、越年して昨日2日に里へ帰ってきた。正月が終わったら病院に行き、焼くでも切るでも何でもしてもらうつもりでいる。遠くの、高い所が呼んでいるからだ。
 上での様子は明日にでも。赤羽さん話すことがたくさんあります。
 本日はこの辺で。

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      ’24年「冬」(40)

2024年12月28日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

      これは昨日の雪雲の中の経ヶ岳と里の風景
 
 やはり昨夜、また雪が降った。薄っすらと地表を白くしただけで目下のところ止んでいる。天気予報では午後にまた少し降るようだが大したことはないだろう。問題は上で、あちらはまだ降っていそうだ。逆側の経ヶ岳は完全に雪雲の中。
 
 年の瀬もついにここまで来たかという気がしている。越年のため30日には上に行くから、今年里にいるのはきょうと明日しかない。気持ちだけは急かされるが、もう年内にすることは特にないし、新年が来ると言ってもこの年齢になれば改まってそれを寿ぐ気持ちにもなれずにいる。人並みに新しい年が来ることに胸を膨らませていたのはいつのころまでだったろうか。

 今年も入笠で越年し、新年を迎えるために何人かの人たちが来る。それはそれでもちろんいいが、一人で大晦日からぽつねんと過ごし新年を迎えたことも何度かある。
 老人が、というにはまだ早かったが、あのうら寂しい山の中の、色彩の乏しい林や草原の方に心魅かれて、することもなく一人だけで年を越す。そういう侘しい風景が呼んだのだ。
 一生懸命に年越しの料理を作って、思い通りの情景を描けたこともあれば、何もせずに酒を飲んで、早々に寝てしまったこともあった。今となってみれば味わい深さよりか、どちらも隙間風の吹き込むような寒くて切ない部屋の風景だったような気がする。

 それでも、流行りの夥しい数の電球を使ってこれでもかと人工的な虚構の美しさを見せつける観光地の電飾よりかは、まだマシだと思う。建築物であれ樹木であれ何にでも見栄えさえ良ければと、あんな古い集落までもがXXの厚化粧のような真似を始めた。
 そのうちには電飾のような装飾が施されなければ何も感じないような不感症の人が増えるかも知れない。
 コンビニの向こうに見える富士山の写真を撮って喜び、歩くこともままならない橋の上に立ってわが身をを撮れれば、目の前の山の名も覚えないまま満足して帰るといった不思議な人たちのことだが。
 いや、耳障りな余計なことを言って、老人のひがみだと嗤って下され。

 外は雪が舞っている。気温はこの時間9時半になっても零度を超えない。灰色の雪雲は最低雲高をさらに下げたようだ。
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。

 
 

 

 
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      ’24年「冬」(39)

2024年12月27日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 雪が降っている。夜は別にして昼に降るのは今冬初めてのような気がする。午前11時、外の気温は1度。このくらいだと、恐らく今に雨に代わるか止むと思うが、里はそれでよしとして、果たして上はどうだろうか。
 一昨年は12月に2度ほどそれなりの量の雪が降って、越年のため上に車で行くことを断念したのは既報の通り。とは言え、大晦日には毎年、何とか車で上がった記憶の方が多い。
 
 もう、15年くらい前になるだろうか、残留した2頭のうち、1頭は年内に降ろせたが、もう1頭は足を痛め牧内を彷徨した末に餓死した。死骸を里へ運ぶことができたのは翌年になってからで、確か7日ごろ、いや、それは死を確認した時で搬出はそれよりか後だった。
 この年は越年を上でしたかどうか、今でははっきりしないが、24日のクリスマスイヴには行って、牛を呼んで配合飼料を与えたことはよく覚えている。その後正月3日に行ったときは姿を確認できず、恐らくすでに死んでいたか動けなかったに違いない。
 7日に、徹底的に捜索するため身支度を整えて上がり、小さく、軽くなった死体を発見し、一人で道路近くまで運び降ろした。散々手を焼かされた牛だったが、その分余計に不憫な思いが強く残った。
 トラックの用意ができたのは10日だったか、その時も上がっているが、車は途中で雪にスタックし、応援にも行ったはずだ。

 炬燵の中から曇天の空を眺めていると、上で起こったいろいろな出来事が次々と思い出されて尽きない。どうやら雪は止んだようだ。
 一昨日は「拙を守って田園に帰」った人の詩の一節で終えたが、かの詩人のように「守る」のではなく、望まずも「拙」に生きるしかない18年だった。
 それでも21年前、56歳になるという前日にした決心、そのまま東京に留まらず都落ちを選んだことに関しては、悔いがなかったかと問われたら一事を省いて「ない」と答える。
 
 田舎に帰ってからは立場も、経済的な面でもやはり大きく変わった。しかし、入笠牧場と牛たち、それと周囲の自然はいつも味方でいてくれたと思う。単に故郷で暮らすというだけでは、こうまでは言えない。「あんな山の中で、それも一人で」と言う人もいたけれど「あんな山の中」の「一人」だったから良かったのだ。
 良い人たちにも出会えた。これも大きい。もちろんあなたもその一人です。
 本日はこの辺で。
 
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      ’24年「冬」(38)

2024年12月25日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 昨日呟きかけたように、そのことはかなり気にしている。最近は日中でも、この辺りでは昔のように歩いている人を見かけない。用事は電話で済ませ、必要ならば車で行けばいい。ましてこの寒い冬、それも夜、集落の中でさえ外を出歩く人はまず見かけなくなった。
 
 子供のころは夜間に用事を言いつけられれば懐中電灯ではなく提灯を持たされ、街灯のない暗い道で人の気配を感ずると「お使いでございます」とか「こんばんわ」とか、まずこっちから声を発しろと教えられた。そう、「オツカイデゴザンス」と言われても、今なら分かるが、まるで意味も分からず符丁のように聞いていた。
 夜や墓地を怖れたり、幽霊、妖怪の類の怪奇譚は、背景に夜の治安維持を兼ねた先人の知恵も含まれていたような気がする。
 ついでながら、もう、夜の墓参りなどとっくに止めた。もし誰かが石塔の横に人影を目にでもしたら腰を抜かすほど驚くだろうし、そんなことになれば、以後は世間から相手にされなくなる。

 村の中でもそうなのだから、それが人家のない山の道となると時間にもよるが、もし人と出会えば自分のことはさて置いて、まず相手を不審者と思う。だからと言って、こちらから何か問うのも憚られる。
 何分にも、誰にも会わない前提で、と言うかそのために、夜の散歩しているのだ。もし出会えば「こんばんは」ぐらいは言うつもりだが、瀬澤川の谷の中とか、場所によってはそれでも相手は驚き、不気味に思うだろう。
 
 こうなれば、運動とかの目的を持って歩いているのだと分からせる服装を考えなければならないが、この時季は難しい。散歩であって、走ったりするわけではないから、運動着では風邪を引く可能性もある。
 
 止めればいい。それが一番である。望んでまで奇人、変人扱いされるつもりはないし、不慮の事故を避けるためにもそうすべきだ。せめて散歩は日の落ちる前に帰って、後は寝るまで大人しくしていよう。
 
 それにしても、夜の闇や里山の散歩は、捕らえられて狭い檻の中で暮らす野生動物が、いつまでもサバンナを忘れられずにいるように、この身も、そこまで野生化が進行していたという証なのだろうか。
「羈鳥(きちょう)は旧林を恋ひ、池魚は古淵を思ふ」。
 本日はこの辺で。
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      ’24年「冬」(37)

2024年12月24日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 夜の散歩と昼の散歩とではその気分、味わいが違う。何年もかけて地下深くから湧出したあの洞の水は夏でも冷たく、1分とその中に手を浸してはいられない。飲めばその味はまさに甘露かんろ。
 他方、生ぬるくなったペットボトルの水は喉の渇きを癒してはくれても、それだけである。前者が夜、後者が昼の散歩、そのくらいの違いがあると感じている。
 
 開田に出てこの時季、冬枯れの景色を眺めながら東の仙丈岳や、伊那の谷を挟んだ逆側の木曽駒の雪の様子を気にしながら歩くのも悪くはない。特に風のない、暖かな陽射しの中ならなお有難い。
 一面に拡がる田畑は1年の役目を終えて、翌年が来るのををじっと待っている。その景色をペットボトルの生ぬるい水などと言ったのは訂正した方がいいかも知れない。

 それでも、同じ場所からでも、味わう雰囲気はまた別だ。頭上に浮かぶ冬の星々や星座、薄暗い影絵のような仙丈岳を背後にして、うずくまる遠く小さな集落の灯り、その手前の無駄とも思える広大な闇。
 それに、周囲の沈黙に加え、冬の夜気が伝わってきて、とにかくそのすがすがしさが昼とは格段に違う。

 ここまでくれば、もう歩き出す前の迷いは消える。雑念だろうが妄念だろうがそれらを拒まず、いつもの決めた順路を歩くだけだ。
 開田を抜けると、狭い畑中を走る車道を300メートル位歩かなければならないが、幸い滅多にしか車は通らず、夜間の交通量は少ない。車の灯りが近付けば、歩行者がいることをヘッドランプを点けて教える。
 一昨夜は、牛飼い座の主星に引きずられた北斗七星の柄の部分が、東の空、雑木林の上に見え始めていた。

 車道と別れて、暗い谷へ下りていく。闇の中から聞こえてくる沢の水音については、いくら強調してもし過ぎるとは思わない。暗闇に磨かれた流れの音は、なんともすがすがしく、気が引き締まる。
 それから集落の端を遠慮しがちに通り抜け、人家の絶えた山裾を急ぎ足で登って峠に出でる。ようやくそこで、待っていてくれた夜景と出会う。
 天竜川を中心にして経ヶ岳の山裾にまでも続く光、影のような山並み、前にも呟いたがこの眺めには過去が見え、現在が見え、未来も見えているような気がしてくる。

 眠りに入りつつある集落ばかりか、山の中でも、人眼に付かないことだけを願って歩く。夜の散歩の最も気になるのはクマやキツネ、タヌキなどではなく人である。そのことを言いそびれたので、また明日にでも。
 本日はこの辺で。
 
 

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      ’24年「冬」(36)

2024年12月23日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 いつもの散歩では、開田に出る前に地元の人が「ホラ口(洞口)の坂」と呼ぶ坂道を登らなければならない。前にも呟いたが、この「ホラ(洞)」という意味は穴のことではなくて、小さな沢の流れる谷のことである。だから「口」が付いて、谷の入り口を指すのだとその時も言ったと思う。名前こそ付かないが、入笠にもそういう谷は幾つかある。
 
 このこともその時呟いたと思うが、われわれの集落「福島村」は、いつのころからかは調べてないが、比較的早くから水道が施設されていたそうで、水源はこのホラ口の中段辺りから湧く地下水を利用していた。今も、その水源の入り口2カ所には名残の古い扉と、大型トラックの荷台ほどの金属製の貯水タンクが残っている。
 (また消えた)
 近くには碑が建てられていて、そこには「罔象女命」と言う文字が彫られてる。この碑が水の神様で、「ミズハノメノミコト」と読めるようになったのは、都会から田舎に帰ってきて、それも大分経ってからのことだった。
 記紀によれば、イザナミが火の神、カグツチを産んだ際に女陰を火傷して、その痛みから漏らした糞尿のうち、尿から生まれたのがこの神ということらしい。「母なる大地」という言葉もあるが、イザナミは夫であるイザナギとともに国を産み、さらに次々と山川草木の神々を産んだのだとか。

 脱線した。きょうはこんな一度呟いたことを、知ったかぶって繰り返すべきではなかった。
 それにしてもしかし、こうした神話が書かれている古事記や日本書記は、8世紀の初めに作られたものだ。このような物語がそんな時代に存在していたことにただただ驚き、畏れ入る。

 洞口の坂に戻るが、小さいころは父親の引く荷車の後ろを押しながらこの坂を登ったものだ。当時でもすでに「リヤカー」などと呼ぶ金属製フレームにゴムタイヤの付いた荷車もあったが、わが家のは時代劇に出てくるような木製で、輪には鉄板が巻かれていた。
 当然未舗装だったから、荷車の輪が石ころの混ざった山道を登る際にはゴトゴトと音までして、その振動が手に伝わってくる不快な感触は今でも忘れない。
 ぼつぼつエンジンの付いた耕運機が登場し始めたころで、まだそんな旧式な物に頼っている姿を人に見られるのは子供心にも恥ずかしかった。
 
 それから荷車の類は姿を消した。牛馬も同じ運命をたどり、耕運機がそれらにとって代わり、今では大型のトラクターが幅を利かすようになった。
 1枚の田の大きさは耕地整理で2倍、3倍と広がり、機械でなければとても手に負えず、泥田に這いつくばるような田植えばかりか、家族総出でやった稲作の古い風景はすっかり消えた。

 昨夜もそうだったが、夜の散歩で洞口坂を歩いていると、そんな遠い日のあんな貧相な記憶・風景に、ささやかな団居(まどい)にも似た思いが被ってくる。
 本日はこの辺で。
 
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      ’24年「冬」(35)

2024年12月21日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

  頭上の倒木はいずれ道路に落下する、次回はチェーンソーを持っていく
 
 歩いていれば、人は1分間に6,70㍍は進む。遠くに見えている畑中の道も、考え事でもしていれば思いがけずに通り過ぎていることもある。散歩をしていると、よくそういうことがあって、以前には歳を取る早さに譬えたことがあった。まだまだ先だと思っていたら、いつの間にかその歳になっていた、と言う経験は誰にもあるだろう。
 
 その一方、「座る」と、1分は結構長い。5分ならもっと長い。その間は鼻でする呼吸に集中することになっていて、一応その指導に従うべく努力している。すなわち、そんなことができるか否かはまた別の話だが、雑念、妄念はご法度ということになっている。
 にもかかわらず座っていると、今夜は何を食べようかという愚にもつかぬことが、耳のそばで囁く。情けない話であるが、それが実情である。

 こんなふうに歩いていれば時の経過の早さを、座っていればその遅さを意識する。これでは普段から混乱している頭の中が、よりひどくなるのではと案じながらも続けている。
 それでも散歩はまだいい。暇をつぶすには炬燵の囚われ人だけではいられないからだし、散歩コースの見慣れた風景でも微妙に表情を変えてくれるから飽きない。小屋から眺める権兵衛山がそうだった。

 それではなぜ座るのか、となるとこれは自分でもよく説明ができないでいる。最初は、時の過ぎていくのに少しでも抗おうとして始めたつもりだった。
 今でもその気持ちはあるが、稀にだが結構集中できる時があって、スキーで納得のいく滑りができた時のように、その体験を再現させたいと思っているのではないかとこのごろは考えている。以前に「心のラジオ体操」と言ったりしたが、いまさら精神的な面ではあまり期待していない。
 もう少し続けていけば、もっと上手い説明ができるようになるかも知れないが、さてそれも果たしてどうだか。

 今朝は寒かった。7時半過ぎでも外の気温は零下4度、上ならさらに6度ばかり低いだろうから零下10度か。そのくらいにはなっていただろう。
 一昨日上に行った時、いつものように取水場へ行ってみたら、放出している水が危うく氷の塊で塞がれそうになっていた。氷柱を割り、加減していた水量をさらに増やしてきた。
 本日はこの辺で、明日は沈黙します。


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      ’24年「冬」(34)

2024年12月19日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など


 急に思い立って上に行ってきた。心配していた雪の状態は、きょうの写真からも分かるようにそれほどのことはなく、道中何事もなく小屋に着くことができた。
 荊口を過ぎてから目に付き始めた道路に残る雪は多分昨夜降ったのだと思うが、芝平を過ぎ第1堰堤から先は車の通った跡はなく、峠に出ても変わらず、ついに上までずっと新雪の続く道に新しい轍を残してきた。
 最も雪が深かった場所は牧場内の初の沢の大曲りを過ぎ、日の当たらない緩やかな登りとなる場所で、古い雪の上にさらに積雪を増やしたらしく15センチほどはあっただろうか。このまま大雪が降らなければ越年は車で行けそうだったが、こればかりはあまり楽観しないことにした。
 
 やはり上に行くと冬の山の冷気に触れ、あるいは久しぶりの雪の山々や剣呑な雪空を眺め、気合が入る。緊張感が湧いてきて、それが快い。
 人気はもちろん、鹿の姿すら目にしない。雪の上に残る足跡といったらせいぜいウサギぐらいで、他の動物たちは雪を避けもっと標高の低い場所へ移動したか、それとも穴倉の中でおとなしくしているのだろう。
 
 雪の上に残るそんな足跡を目にすると、決まって思い出すことがある。あれは2匹の犬を連れて、第1堰堤から夜の雪道を歩いて登ろうとした時のことだった。
 ド日蔭の少し手前、犬が目敏く鹿の死体を見付け、そうなったらそのうちの1頭キクはそこで後続することを止めてしまった。獲物のそばから離れようとしないのだ。そのうちに追いかけてくると思ったが、それがお転婆な彼女の姿を目にした最後となった。
 いろいろな事情が重なって、本格的に犬の捜索を始めたのは翌々日になったが、今でも雪の上に残る動物の足跡を見ると、他の動物との判別に苦労しながらキクの足跡を探し歩いたことを思い出す。北原のお師匠が、「戻ってきたら肉を持って行ってやる」と言ってくれたその声も一緒に。

 いろいろなことがあった。里と比較して上には良いことの方が多かった。帰りかけて、そんなことを車を停めて振り返っていると、起伏に富んだ雪の丘陵に、初の沢の流れるダケカンバの林に、そして視界に入る遠い吹雪の山々にも感謝の念が湧いてきた。
 もし車で行くのが無理になったなら、法華道を歩いていくことも厭わないと思っていた。
 本日はこの辺で。

  
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      ’24年「冬」(33)

2024年12月18日 | キャンプ場および宿泊施設の案内など

 
 昨日も似たようなことを呟いたが、12月もいつの間にか半分以上が過ぎてしまった。本当に「いつの間にか」という気がしている。同時にまた、山を下りて約1か月が経ち、7か月間の上の暮らしの方は遠い記憶の中に片付いたのか、まるで他人事のようになってしまった。
 越年のため、荷揚げを兼ねて上の様子を見に行きたいと思いながらも勝手に日ばかりが過ぎゆくから、こんなことでは年末がすぐに来てしまいそうだ。(12月17日記)

 午前6時半、室内気温が6度に対し外は零度、まだ空腹感はない。部屋の中が暖まるまではじっとしていて、風呂の湧くのを待つことにする。
 昨夜はおかしな夢を見た。引っ越しの夢で、住所は新宿区でありながら近くに諏訪湖があって、街はそれなりの落ち着きを見せていた。目指す家は古い共同住宅で、急な階段を上った2階の6畳間の入り口に急ごしらえの流し台とガスコンロがあり、部屋の中には知らない人の古いベットと、その上に布団が山積みされたままになっていた。果たしてこんな所で夫婦二人が暮らせるのかと茫然としているところで夢から覚めた。
 
 で、実際はどこに寝ているのか分からず、しばし薄暗い部屋の中を見回し、ようやく現実に還り安堵した。まだわが陋屋の方が広いだけでもマシだった。
 夢の中に連れ合いがいたのも意外と言うしかなく、人生の半分以上を一人で暮らしてきたのに、ちゃんと夢にはいた。それも、長年一緒に暮らしていたらしく、何か疲れたような動作で引っ越しの続きをやっていた。
 口は利かなかった。亡くなった人は夢の中に出てきても、言葉を口にしないという話を聞いたような気がする。その上明らかにやつれていた。夢の中でも苦労させていたようだ。

 この意味深な夢を反芻しながら風呂に入っていると、その間もずっとオートバイの暖機運転の音がしていた。すぐ走り出していれば、4キロぐらい先まで行けただろうに、まだ動く気配がない。
 バイパスができたら、田んぼの中にアパートができ、近くにはいろいろな店舗も出店してきて便利になった。しかしその分騒々しくなった。
 都会で喧騒には散々鍛えられたはずながら、もしもあの音を入笠の子鳥の声のように聞くことができたなら、わが人生もかなり違っていただろう。
 本日はこの辺で。
 

 

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