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きょうから9月、ここ山の中の牧場にはとっくに秋は来ていたが、これからはそれを憚ることなく一足早い季節について広言しても差し支えないだろう。と、そう思いつつも、「危険な暑さ」はまだしばらく日本列島に居残るらしいし、早くも新しい台風情報が伝えられている。
いくら文明が進歩しても自然災害に弱いのは、われわれが歴史の過誤をいつまでも繰り返すのと同様に、そう簡単には越せない難壁であり続けるだろう。
奇しくもきょうは関東大震災からちょうど100年だと。
そんなわけで秋の話題として、遠い昔の山の思い出話でもしようと考えた。年間、多い時にはゲレンデも含めて70日以上も山へ行っていたこともあるから、まず話題に事欠くことはないというつもりでいた。
ところが、今回もやはり不思議なくらい何も思い出せない。例えば、穂高からの帰り、沢渡の集落を過ぎたある人家の入り口に「マツタケあります」の表示を目にしたことは今でもカーブの先のその古ぼけた家の佇まいなど、かなり鮮明に覚えている。しかし肝心な山行のことは誰かと一緒の登攀だったのか、単独の山歩きだったのか完全に記憶から抜けてしまっている。
同じく秋、徳本峠越えのため、単独で途中のイワナ止めまでタクシーで行ったことは確かだし、その前に村中の雑貨屋に立ち寄ったことは定かでも、なぜそんな経路を経て、どこへ行こうとしたのかはこれまたまったく思い出せない。
北岳や谷川へもよく行った。断片的な記憶なら思い出せるが、それでは話が続きそうもない。
その際の登攀についても、一番思い出深い岩壁はと問われても、応えようがない。夜、水を汲みにバットレスの基部へ出掛け、そこで見上げた夥しいまでの星々の煌きは目の奥にあり、それが1977年に打ち上げられて今も飛び続けるボイジャーへの関心に繫がっていることは間違いない。
だとしても、中央稜の登攀が、本来のルートから逸れてしまったせいもあるが、他と比べて特別な印象などは残していない。
20代から30代のあのころと、現在の山に対する気持ちが相当に変わってしまったことは、それとなく感じている。屛風岩のような高度感の際立つ登攀をしたはずが、小屋の前の電柱に登るのさえ躊躇うようになってしまっている。今ごろになって高所恐怖症を発症しただけではなく、あの熱狂そのものが醒めてしまい、語る気さえなくなっているようなのだ。そう、男女間にも似たような感情があったりはしなかったか。
いい秋が来た。真っ青な空が拡がり、きょうも北アから中央までの長い山脈がくっきりと見えている。落葉松は水の吸い上げを止め、やがて褪色の色を見せるようになるし、大分ススキ穂も目立つようになってきた。後1週間もしないうちに、もしかすればキノコ狩りができるかも知れない。
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本日はこの辺で。