○ ハンナ・アーレント 1906-1975
○ 明治44(1911)年。東京の洋食屋の娘・卯野め以子(豊嶋花)は小学一年生。
おー、ほぼ同い年の二人。
○ 1961 アドルフ・アイヒマン裁判
○ ハイデガー、私のなかのハイデガー。
““パリのアメリカ人”13歳のダイアン・レインが
ベルサイユでハイデッガー(だったっけ?そのあたりの人…)を読んでいると、
即座にその哲学者を批評する同い年のフランス人の男の子と出会い、
ベネチアめざして旅立つことになる。。。
…めぐりあわせ よねえ、人生は。”
Festina lente!では済まなくなり(読み進もうにも難しいぃ!)急げや急げと
「アレント Hannah Arendt 公共性の復権」 川崎修 講談社 2005
私の気を引きそうなこと あれこれ動員して ページをめくったが
迫りくる 魔のシーズン<花粉症>を避けがたくなってきてしまい
(症状すでに出てきている、今年って少ないんじゃなかったの。これ、花粉症じゃないのかな。)
まさか ティッシュボックス抱えて映画館に陣取るわけにもいかず
そんな様子見しているうちに スケジュール終わってしまいそう、と
第三章 アメリカという夢・アメリカという悪夢 に達すること無きまま
「ハンナ・アーレント」を見た。
もしかしたら
短い人物紹介を読むだけで行った方がよかったのかもしれない。
途中 あれこれ考え込んでみていて ストーリーリズムに乗れなくなるところが いくつも出てきてしまった。
と帰りついて 本の続きを広げているうちに 切なくなった。
「…アレントは1941年にアメリカに亡
命し、1951年にはアメリカの市民権を獲得している。つまり、亡命後のアレントにとっては、ア
メリカは生活の場であるだけでなく、彼女が著作物の読者として第一に想定したのもアメリカの知的
世界であった。ドイツ語を母語として、哲学をその教養の中核として知的経験を重ねてきた者にとっ
て、三十代後半にして、未知の国の読者たちにたいして、政治理論家として英語で著作活動をおこな
うということは、当然ながら、大変な変化であったことは想像に難くない。」 192ページ *
…その教養の中核として知的経験を重ねてきた者にとって、… **
「ただいま。」
「あ、オカエリィ。。。」
「ん? (変な声のお帰り、だけど)何か(悩み事etc.)あったの?」
「え? ああ、映画見て 本読んで *の**のところで 自分の“教養”ってどうなってんだ、て思って…。」
「それで暗くなってた、と? アレント流れに我が身を置く?(ソイツハ凄イ、と呆れ口調><。)」
本当だ。ソイツハ凄イ、確カニ呆レル。
(1961-1906)歳の風貌のアレントが 今そこで 深く考えている。
引き込まれ もっと理解しようと本を広げ はね飛ばされ(難しい。←当ったり前か。。。) なのに 心の中に熱がこもり、な今。
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アレント 英語の時
アーレント ドイツ語の時 そんなふうに聞こえた。