(積読かれた)エッセイ集「物理村の風景 人・物理・巨人・追想をちりばめた宝石箱」を手にし、再挑戦。(連休にはミニ大掃除、そこから発生「これちいとも読んでないやん。」本、発掘。)
著者(あるいは編集者?)がどんなに宝石箱と呼ぼうとも、その輝ききらめきを解さない者(≒私)には、猫に小判。「巨人」であるはずのニールス・ボーアに、「って誰なんだろう?」ハテナ点灯し、すぐに読み進まなくなっていました、前回。
さて、今回。似たような境遇の下に積読かれた大栗博司「探求する精神」も発掘され、パラパラ飛ばし読み。あ、ニールス・ボーアが出てきた。トランプ「神経衰弱」ゲームのような高揚感(オオゲサデス)と共に「物理村の風景」に舞い戻り、なイマココ。
コペンハーゲン精神という言葉が出てきました。
コペンハーゲン精神。
これ、私のむかしむかしの中にもあった気がする。
大胆にもそんな気になるのでした。
“その木製スツールが展示してあるのに気がついた瞬間
「これ、うちにあるじゃん。」
そう思った。
(そう思ってしまったのだった。)”
の時の気分と似ています。
「持続可能な恋ですか?~父と娘の結婚行進曲~」の
林太郎(≒お父さん)が辞書編纂のため採録・検討している
「キュンです」。。。みたいなのかなあ。。。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
部活が週にどのくらいの頻度であったのか
部活のない日 教室に残り ありとあらゆる会話をしたような記憶が ある。
「♪ Close your eyes クラス」の学年の時に。
クラスメイトそれぞれにスケジュールはあって
その日その時の 教室に残っているメンバーも人数も てんでにバラバラだったはずなのに
ありとあらゆる会話は どの日もどの時も
のびのびと 教室の中を飛び交っていたような気がするのだ。
和辻さんところの「幼稚であること」だったのだろうか。
誰かが「?」と問い 誰かが「!」と答える。
誰かが問い 誰かが答える。そしてまた誰かが問い 誰かが答える…。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・