<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

この地上の極楽の、花の中を走る

2016年04月05日 14時51分25秒 | Weblog

さてこれからサイクリングをしてきます。例の一八段変速の軽快車に乗って。ペダルをぐいぐい漕いで。時速20km/hくらいにして春風を切って。春風を切るというと大層聞こえがいいのですが、老人はしかしすぐに、あははは、息が切れてしまいます。今は3時ですから日暮れまでにはまだ少々時間があります。でも雨が降って来そうな空模様でもあります。雨に濡れるのはご免ですね。途中で降参して引き返して来るのかも知れません。菜の花と桜と木蓮と花スオウとレンギョウと檀(まゆみ)とチューリップとラッパ水仙とが押すな押すなで咲いています。この地上の極楽の花の中を走ります。

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不生であって不滅の仏のおいのちを、人が生きる

2016年04月05日 14時30分16秒 | Weblog

物言いが大上段過ぎたかなあ。「阿弥陀仏を生きる者」は不生であって不滅である。生まれもしないし死にもしない。われわれは現象を生きているのではないからだ。阿弥陀仏に生かされている身である。肉体が死んでも生まれても、それは同じだ。一人では生きられない。人間としては生きられないのだ。ここは仏界である。仏界ではわれわれは仏としてしか生きられないのである。仏の救済に与って与って生きているのだから、仏さまの化身である。

親鸞の浄土和讃中の現世利益和讃にはこうある。

無礙光仏のひかりには/無数の阿弥陀ましまして/化仏おのおのことごとく/真実信心をまもるなり

これはさぶろうの理解だから当てにはならないが、化仏は仏の化身である衆生である。仏のおいのちを受けて生きている者のことである。衆生の真実信心を守っているのは阿弥陀仏である。衆生と仏との間に国境を設けているはずがない。梵我一如のはずである。無礙とはそううことである。国の境を取っ払ってあるのである。衝立が置かれていないので行き来が自由である。

肉体を借りているおいのちは肉体としての死を迎えるが、肉体が仏の化身のすべてではないのである。不生であって不滅の仏の命を生きているのである。それしかないのである。それ以外にこの世の生き方はないのである。人間が己の力だけで、采配だけで、智慧だけで、この真実界を生きていられるはずはないのである。たっぷりと法界の法を生きているしかないのである。法界の法を生きている者はもはや仏としかいいようがないではないか。

 

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阿弥陀仏を生きる者は不生であって不滅である

2016年04月05日 13時57分30秒 | Weblog

良寛に辞世あるかと人問はば南無阿弥陀仏といふと答へよ    良寛禅師

南無阿弥陀仏は「一切合切を阿弥陀仏におまかせをします」ということである。南無はサンスクリット語の「ナーモ」の音韻訳語。帰依することである。仏の力に与(あづか)ることである。言いなりになって文句を言わないということである。文句を言ってもいい。いい勝ちかもしれない。どのみち、おまかせするより他にないのだから。人は一人の力では死ねない。わたしの死はこれを仏さまが引き取って、完了してくださるのである。辞世は死ぬ間際の句。坊様仲間では、間際の心境を歌にして残す習慣があったようだ。人は良様に禅宗の高僧らしい句を期待していたのだろうが、これだとちょっと肩すかしなのかも知れない。良様は禅宗のお坊様である。禅宗では南無釈迦牟尼仏を唱える。阿弥陀仏はお釈迦様の説法の中の衆生救済の仏である。浄土宗に鞍替えかと言われそうだが、そういう狭い垣根は設けておられなかったはずである。阿弥陀仏のアミタはサンスクリット語で無量光無量寿の謂である。生き通しに生きている法界の仏である。仏も人も永遠の命を生きているのである。寸断はない。その智慧と慈悲を阿弥陀仏においただきするのである。「答へよ」と命令形になっているが、軽く「答えてみようか」くらいのお気持ちか。

死んで特別の処へ行くわけではない。死んでみたらそれが分かるだろうが、死なない前はそれが気になってしまう。辞世などをものしてお別れの一つも言ってみたくなるのかもしれない。この世も阿弥陀仏の救済のただ中。あの世もまた同じように阿弥陀仏の救済のただ中を生きるだけである。浄土往生をして成仏するというふうに方便の説法が説いてあるが、衆生のおいのちは、現象としての肉体が生きても死んでも、仏さまのお命を生きていることに変わりはないのである。般若の智慧の示す如く、仏として生きているわが命は、不生であって不滅である。そういうふうにさぶろうは理解している。しかし、事有るごとに高い塔のようにぐらりぐらり揺れるから、いい加減な理解であるが。

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スジなし隠元豆の種蒔きをしました

2016年04月05日 13時32分03秒 | Weblog

くだんの通りで半日を過ごしました。土いじりです。まず、濡れ縁の咲き終わった花の鉢を片付けました。それから昨日園芸店で買って来ていたツツジの鉢植えをやや大きめの鉢に移し替え、施肥し水撒きし、これを濡れ縁に列べて置きました。ペチュニア、金魚草も同じように。これで濡れ縁がきれいになりました。それから庭に列べているプランターに、一袋の筋なし隠元豆の種蒔きをしました。草取りをしてからですから、時間が掛かりました。ここまででお昼になりました。土いじりは一人遊びです。休み休みしました。

ひょいとそこへ中っくらいの蜥蜴(とかげ)さんが現れて来ましたので、言葉かけをしました。「こんにちは」「もう冬が終わったから出てきたんだね」「今日はあたたかいよ」「我が家の山桜が満開になっているよ」「見た?」「きれいだったでしょう」「これからちょくちょく会えるね」などと語りかけると蜥蜴はこれに聞き入って動こうとしません。小さい目でこっちを見上げて見詰めています。この人は無害なんだね、と思ってくれたのでしょう。

右手の中指の痛みがだんだんに高じてきました。たぶんリューマチでしょう。お医者さんには行っていませんから自己判断ですが。いつもは夜寝るときに感じていましたがこの頃は昼間も痛みを感じるようになりました。年貢の納め時が近づいています。長年生かして頂いて来たのですから、抵抗をせずに、できるだけいのちの運命に従いたいものです。右手は草取り作業には欠かせません。重要な役割をしています。これから土いじり、草取りが出来なくなるのは辛いです。

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十分に具わっているので十分に与えられている

2016年04月05日 09時49分54秒 | Weblog

諸仏之法 常以一味 令諸世間 普得具足 漸次修行 皆得道果     妙法蓮華経「薬草諭品第五」より

諸仏の法は、常に一味を以て、もろもろの世間をして、普く具足を得しむ。(かくて)漸次に修行すれば、皆道果を得るなり。

仏さまはいつも一つの根本の真理をもって世間の人々があまねく完全な悟りを身につけられるようにしてあるのだ。それで少しまた少しというようにして進んでいけるようにしてあるのだ。有り難いことに、こうやってそれぞれの修行の段階で修行の結果が得られるようにしてあるのだ。

何処をとっても真理である。真理の現れでないものはない。みな真理でもって共通している。一つの味わいになっている。空も風も光も水も、それが織り成す現実という織物も真理の現れでないものはない。それで具足せしめられる。十分に具わっているので十分に与えられる。花に花虻が来て遊んでいる。花虻はそこに真理を汲み取って遊んでいるのだ。花の一箇が宇宙の広さに匹敵しているのだ。

 

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世界中の何処を摘み取ってきても

2016年04月05日 09時16分39秒 | Weblog

ふてぶてしいさぶろうでも、それでもいいようにしてある。どんなにこころ貧しくなってもそれでもいいようにしてある。よかったと思う。こころ豊かでなければ世界がおいしく味わえないとすれば困ったことになっていた。それがそうではなかった。野原へ行けば早蕨が顔を覗かせている。ふてぶてしいさぶろうがこれをふてぶてしく摘んでも、それで蕨が文句を言うわけではない。言わない。食卓に載せたら「ご存分に堪能あれ」をしてくれる。存分とは行かないが堪能する。世界の何処を摘んできてもそれもこれもおいしいようにしてある。おいしく食べられるようにしてある。口で食べる。目で食べる。手に触って食べる。瞑想して食べる。おいしいと思えば食べていることになる。元気をもらっていれば其れで栄養を吸収していることになる。100%こころ豊かな人だけが世界を100%食べられる、そういう方式ではないようにしてあったのだ。100分の1%を食べても世界を100%食べたことになるようにしてあった。春の日の、光が燦々と降って来る。青い空が広がっている。さぶろうはこの春の日の100分の1%も、100の100乗分の1%も食べきれないでいるけれど、それがイースト菌入りのように、のび太君の魔法のように、ふくらんで来る。青空のように広々と広がって、100%に満ちて来る。

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それほどに老いたのだろう

2016年04月05日 08時14分16秒 | Weblog

昨夜の夕食の膳に畑で摘んできたばかりのホウレン草と春菊のおひたし胡麻和えがのった。「うまいうまいうまい」を連発した。そして「ありがとうありがとうありがとう」が静かにおのずからに従った。この頃いつもこうなる。人生の一コマ一コマがどれもこれもあり得ないことに思えてしまう。あり得ないことがあり得ているという現実の不思議さに打たれるようになった。それを噛みしめる。それほどに老いたのだろう。しかし、たしかにうまかった。柔らかかった。みどりみどりしていた。一皿をあっという間に平らげてしまった。一合の熱燗をちびりちびり堪能しながらだが。

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寂静心があれば散って散って行ける

2016年04月05日 07時59分19秒 | Weblog

ひさかたの光のどけき春の日にしずこころなく花の散るらむ     紀友則

桜が咲く春になった。のどかだ。光があふれている。咲いたかと思うともう散っている。吹く風に散っている。定まらない。停止がない。動いて動いている。無常なのだ。花は無常を知っているのだ。それが桜の花の静かなこころなのだ。時の動くまま、行くにまかせて散っている。「しずこころ」は「静心」寂静。「ひさかたの」は「光」にかかる枕詞。「らむ」は推量の助動詞。反語を誘っている。

桜に寂静心がないわけがない。ないのはさぶろうの方だ。寂静心があれば散って散って行けるのだ。散るのを拒んでいるのはさぶろうの方だ。動きを止めようとしているのはさぶろうの方だ。

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光の外という場所は実際には存在していない

2016年04月05日 07時46分30秒 | Weblog

光を浴びる。春の日の光を浴びる。この男は幸福者である。光を浴びるほどの幸福にいるからである。合点が行かなかったら、光の外に出てみるとそれがそうだということに行き着くだろう。光の外という場所は、しかし、実際にはない。夜の闇は光によって闇となっているからである。地球の半球が光を浴びているから、半球が闇となっていることができるのである。闇の中に居るときにもわれわれは全体で光の中に居るのである。闇を浴びていると光がこよなく切なく恋しくなる。そして夜明け。朝になって光をたっぷり浴びる。間接の光空間を通ることでその後の直接の光を浴びる。光を浴びる。明るい春の日の、光を全身全霊に受ける。

 

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内なる心の豊かさが外なる世界の豊かさである

2016年04月05日 07時34分39秒 | Weblog

内なるこころの豊かさがそのまま外なる世界の豊かさである。内なる心にも宇宙世界がある。外なる宇宙世界は、畢竟するに、内なるこころの世界なのではないか。こころが把握した世界こそがその人の住所になっているのではないか。そこに豊かな外なる世界が広がっているとして、それを、ではどうやって把握するか。実体体験をするか。こころを通さないでは不可能だろう。内なるこころを豊かにしていればそれがそのまま外の世界を構築することになるのだ。外の野原に野菫の花が咲いているのは、我が心の野原に咲いていることに等しいのだ。その把握をしたときにだけ野菫が咲くことが可能になるのだ。

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