黄鹿子ユリは茶花になると思う。花が小さい。密かだ。花弁も葉も茎もほっそりしている。幾つもは咲かない。床の間に飾れば、場を引き締めて凛とするだろう。鹿子ユリは反り返っているのが特徴だ。全体が球状をなす。黄色の鹿子は珍しいのではないか。今年は三年がかりでこどもを育てたので、欲しい人があればお譲りができる。でも今年はまだ花は着けないだろう。愛情をかければ来年は咲いてくれるかもしれない。白鹿子はめったに増えない。黄色鹿子のようにはこどもも作らない。濃い赤色の鹿子もそうだ。薄いピンクの鹿子は株も増やすし、割とこどもも多く作る。こどもを作ってもそれがそのまま育つとは限らない。六月から咲き出す。八月末には茎も枯れる。比較的病気には強いが、柔らかい芯を虫が食う。一番育てにくいのは白鹿子だろう。
ああ、きれいきれい。庭に姫林檎が咲き出した。ピンク色をしている。花は房をなしている。みな俯いているので、どの花房とも顔を見合わすことができる。気品に圧倒される。しばらくすると小さな小さな林檎が実る。サクランボのようだ。木の高さは3mほど。毎年剪定をしている。高くなりすぎないように。四月、ここへ歩いてきては、ああきれいきれいの賞賛を浴びせる。何度も何度も。浴びせるたびに地上の春が切なく美しくなって、やるせなくなる。いっそ同化して消えてなくなりたくなる。
帰りは向かい風が強くて、ペダルを懸命に漕ぐのだが、なかなか進まなかった。あんまり上天気なので27インチの大きな自転車に乗って、麦畑の中の農道をサイクリングしてきた。うどん屋さんに行って野菜の掻き揚げうどんを食べた。汗が禿げ頭からぽろぽろ流れ落ちた。禿げ頭は汗を掻きやすい。行き帰り、路傍に蒲公英やシロツメクサ、ウマノアシガタ、キンポウゲがずらずらずらりと列んでお出迎えとお見送りをした。
瞑想はいい。いつでも何処ででも出来る。一人で出来る。短くも長くも出来る。準備資金が要らない。運用のお金もかからない。それなのに神々にも仏陀にも遭うことが出来る。豪勢な宇宙銀河大の旅瞑想も出来る。イメージされたものと合一して悦に入っていることが出来る。出来ることばかりなのだ。あんまり気持ちがいいので眠くなってしまうのが欠点と言えば欠点だ。しかし瞑想の効果は絶大だ。さぶろうの場合はこれで病状が一挙に回復してしまう。完全治癒の瞑想をすれば、これに近づく。精神的だが、贅沢も出来る。現実の生活をしているよりも瞑想の中で生きている方が、従ってよほど楽だ。現象の結果を追わなくてすむ。自在瞑想はすべて我が意を得たものばかりで構成されている。この世の天輪聖王をもくろめばその通りの王なのだ。我が精神の王者なのだ。この利便はなんとも棄て難い。目を開けたままの瞑想というのも出来る。おぼろおぼろで白昼夢に近いかも知れないが、現実への執着心を解いてしまうことが出来る。でも、すべて独り合点なので他者への配分が出来ない。他愛もないと切り捨てることも出来るが、中身は豊富なのだ。しばらくうらうらとした春の日の瞑想に入る。無一文でいいところがいい。
空がやや明るくなって来た。気温は、さっき見て見たら18度cを指していた。早朝は風が冷たく感じられた。早々と外に出て裏の畑に畝を作り、掘った穴に鶏糞をどんさり施肥し、ズッキーニ(黄色)の苗を植えた。夏になる前に実がなるかもしれない。そうしたら朝ごとに収獲をしよう。ときおりスープにして食べよう。ズッキーニはあっさりして上品な味がする。あんまり自己主張をしないからどんな夕食の料理にも添えられる。今日はこれからトマトの苗を西側の日当たりのいい畑に植えることにする。苦瓜はどこに植えたらいいかまだ迷っている。這って行く棚を作ってあげなければならないから少々面倒でもある。こうやって今日も亦漫然と土いじりをして暮らすことになる。単純なること限りなし。こなことに夢中になって遊べるところなぞほんとに子供じみている。隣家との境をなす藪をヤエムグラとオドリコソウが覆い尽くしている。オドリコソウは踊り子の裳裾を思わせるピンクの花を着けている。東の垣根には山吹が咲いて黄金の在処になっている。