<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

さあもうこれで助かったぞ救われたぞ

2016年04月26日 19時16分40秒 | Weblog

是時疲極之衆 心大歓喜 歎未曾有 我等今者 免斯悪道 快得安穏 於是衆人 前入化城 生已度想 生安穏想       妙法蓮華経「化城諭品第七」より

このとき、疲れ極まる衆は心大いに歓喜して未曾有なりと歎じたり。我等今この悪道を免れて快く安穏を得たり。ここに於いて衆人は前(すす)んで化城に入って、已に渡るの想を生じ安穏の想を生じたり。

長く旅をしてきたのでもう旅人は疲労の極に達しています。ところがそこで奇跡が起こります。目の前に立派なお城が現れたのです。今夜はここで休めます。食事も提供されます。そういうことでみんなは大喜びをして後にも先にもこんな例はなかったと感動します。とにかくもう悪道を進まなくてもいいのです。ここで安穏を得たのですから。こういうわけでみんは我先にその宮城に入って行きました。さあこれで救われたぞ、助かったのだと胸を撫で下ろしました。

化城(けじょう)というのは方便のお城です。お化けのお城です。実体はありません。蜃気楼です。でも見ている人にはそれがそうではありません。実際の立派なお城に見えているのです。長い旅をしてきて疲労が極に達していればなおさらです。助かった、救われたと思うのは当然です。ここでしばらく休めたらまた元気を取り戻せます。彼らは砂漠に枕してその夜をぐっすり眠ることが出来ました。翌朝になると元気になっています。お城などというのはもう見えていません。もともとなかったのですから。元気になったらまた旅が続けられます。目的地はここではありません。目的地に来ればみなが「仏に成る」ことができます。化城はそこまでの途中途中に設けられた休憩所です。ここでその人の成長の度合いに応じて大小の方便の教えがさまざまに説かれます。

「生已度想 生安穏想」 しょういどそう しょうあんのんそう。さあもうこれで助かったぞ救われたぞ、そう思ってこころが安らぎます。そういうことを思うような場所が人生の此処其処に何カ所も何カ所も設けられています。そこで疲労が癒されて、また元気を涌かします。よし先へ進もうという気持ちが湧き起こります。このようにして目的地まで導かれて行くのです。守られて護られて行きます。

極端な言い方をすれば夜はすべてこの化城です。化城の役目をしています。ここで疲労をいやして体を休ませ気力の回復を見るのです。一日で最終目的地まで進むのではありません。こうではない、ああではないなどと煩悶しながら進むのです。そこに意味があるのです。これが不可欠なのです。ブッダはわれわれをまるで赤ちゃん扱いしているところがあります。宥め賺して行くのです。最終地点はわたしがブッダになる、すなわち成仏することです。

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男と女はこころが通い合う

2016年04月26日 17時49分19秒 | Weblog

きみにかくあい見ることの嬉しさもまだ醒めやらぬ夢かとぞ思ふ   貞心尼

これは良様とはじめて会ったときの貞心尼の歌。良寛禅師にお会いできて頬をぽっと赤らめている様子が見えてきそうだ。嬉しい気持ちがいつまでも続いているのである。

あなたにこのようにしてお逢いすることが出来ました。この嬉しさがずっと続いていますから、これはきっとまだ夢の中なのでしょう、きっと。

夢の世にかつまどろみて夢をまた語るも夢もそれがまにまに     良さま

貞心尼の歌を届けられた良寛さまはこう返された。うたかたのように短い儚い夢の人の世を生きながらえておどろに夢を見る。その夢を見たことを語る。その間間にあなたとわたしとが会ったのですね。なるほどこれは貴重です。価値があります。そういって肯定をされた。

男と女が会う。嬉しいと思う。こころがそこで通い合う。夢のようじゃないかと思う。儚い世の中であって、男と女との出会いもまた儚い。儚いけれども人と人のこころの交流が成立する。もうこれで十分である。

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来るところを間違ったんじゃないか

2016年04月26日 10時16分40秒 | Weblog

僕はこんなぐうたらだ。こんなぐうたらのところへ来て風が吹いている。おまえさん、来るところをまちがったんじゃないか。僕は言ってやる。こんなところへ来てどうする。すると、風が言う。「どうもしません。でもねここは居心地がいいんですよ」どうして? 僕は聞き返す。「威張らないところは居心地がいいんですよ」「いつまでいたって平気なんです」だらしない人のところには圧力がかかっていない。そういう。ふうんそうか、そんなもんか。僕は風ににこりとしてみせる。すると風の奴、じゃ、向こうの白い雲の夏のところまで遊びに行って来ます。また帰りに寄りますね。そういって姿を消した。風が口があるのか。それがあるんだ。僕には見えているよ、それが。鰐のようにでかい口じゃないけどね。ツリガネソウのようなすぼまった可愛いのが下を向いている。

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何を楽しむか 楽しむことはいろいろある

2016年04月26日 06時43分55秒 | Weblog

何を楽しむか。楽しむことはいろいろある。だから人それぞれ。千差万別だろう。どれを選んでもいい。そこに楽しみを見出したらいいのだ。そんなものが楽しいのかと言われようと、楽しければいいのだ。人に迷惑をかけない程度で、それを楽しめたらいいのだから。一つに飽いたらまた次に移動すればいい。一つに固執することではない。なにしろどれだけでもあるのだから。無限大だから。とにかくそれを楽しんで興奮を覚えていればいいのだから。こころがそれで豊かになって温かくなって明るく弾んでくればしめたものだ。わくわくどきどきはいいものだ。

さぶろうがいま嵌まっているのはサイクリングだ。春風の風を切って進む。この醍醐味。これは楽しい。ベースキャンプ地までは車に自転車を積んでおく。そこで下りる。軽快車に跨がる。野原を渡り川を渡り新しい町や村に辿り着く。野草の花を見花を見花を見る。ゆっくりゆったり。この高齢者がこれですっかり興奮するのだ。しかも全部を一人でできるのだ。何処へ行ってもいい。休みたいときが来たらそこで一服すればすむ。畦道に座って空を仰ぐ。深呼吸をする。生きているぞと思う。涙になる。笑いになる。自由自在なのだ。

連休が目の前だ。連休の過ごし方は決めてある。サイクリングと畑仕事と昼寝だ。何処の町まで行こうか。何処の公園をベースキャンプ地にしようか。それはまだ決めていない。合間合間には畑仕事だ。平莢隠元豆の種を蒔こう。わざわざ高額宿泊料を払ってホテルの夕食にうまいものを喰う。その旅の楽しさは若い人、働いている人、大金持ちにお譲りしよう。瞑想の後の昼寝のうとうと。これも値千金だ。瞑想はこころの宇宙飛行遊覧にする。これは無料だ。無料で神さまの快感が味わえる。

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