是時疲極之衆 心大歓喜 歎未曾有 我等今者 免斯悪道 快得安穏 於是衆人 前入化城 生已度想 生安穏想 妙法蓮華経「化城諭品第七」より
このとき、疲れ極まる衆は心大いに歓喜して未曾有なりと歎じたり。我等今この悪道を免れて快く安穏を得たり。ここに於いて衆人は前(すす)んで化城に入って、已に渡るの想を生じ安穏の想を生じたり。
*
長く旅をしてきたのでもう旅人は疲労の極に達しています。ところがそこで奇跡が起こります。目の前に立派なお城が現れたのです。今夜はここで休めます。食事も提供されます。そういうことでみんなは大喜びをして後にも先にもこんな例はなかったと感動します。とにかくもう悪道を進まなくてもいいのです。ここで安穏を得たのですから。こういうわけでみんは我先にその宮城に入って行きました。さあこれで救われたぞ、助かったのだと胸を撫で下ろしました。
*
化城(けじょう)というのは方便のお城です。お化けのお城です。実体はありません。蜃気楼です。でも見ている人にはそれがそうではありません。実際の立派なお城に見えているのです。長い旅をしてきて疲労が極に達していればなおさらです。助かった、救われたと思うのは当然です。ここでしばらく休めたらまた元気を取り戻せます。彼らは砂漠に枕してその夜をぐっすり眠ることが出来ました。翌朝になると元気になっています。お城などというのはもう見えていません。もともとなかったのですから。元気になったらまた旅が続けられます。目的地はここではありません。目的地に来ればみなが「仏に成る」ことができます。化城はそこまでの途中途中に設けられた休憩所です。ここでその人の成長の度合いに応じて大小の方便の教えがさまざまに説かれます。
*
「生已度想 生安穏想」 しょういどそう しょうあんのんそう。さあもうこれで助かったぞ救われたぞ、そう思ってこころが安らぎます。そういうことを思うような場所が人生の此処其処に何カ所も何カ所も設けられています。そこで疲労が癒されて、また元気を涌かします。よし先へ進もうという気持ちが湧き起こります。このようにして目的地まで導かれて行くのです。守られて護られて行きます。
*
極端な言い方をすれば夜はすべてこの化城です。化城の役目をしています。ここで疲労をいやして体を休ませ気力の回復を見るのです。一日で最終目的地まで進むのではありません。こうではない、ああではないなどと煩悶しながら進むのです。そこに意味があるのです。これが不可欠なのです。ブッダはわれわれをまるで赤ちゃん扱いしているところがあります。宥め賺して行くのです。最終地点はわたしがブッダになる、すなわち成仏することです。