<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

明日が来る前にやすみます

2016年04月22日 23時38分43秒 | Weblog

ふう。さっきのブログを書き終わるのに約1時間を要しました。溜息のふう。すべてさぶろう自身を慰撫するためです。他者への説法などではありません。そんなことはできません。さぶろうは仏陀の説法を受け取るだけです。噛み砕いて噛み砕いて咀嚼して消化して。呑み込んでしまうのでこれを放つことはできません。

さ、もう寝ます。明日が来る前にやすみます。おやすみなさい。空が晴れて明るくて爽やかで、いい一日でした。

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仏法を聞いて現世を安穏にしていれば後にも生まれる

2016年04月22日 22時52分59秒 | Weblog

是諸衆生 聞是法已 現世安穏 後生善処 以道受楽 亦得聞法 既聞法已 離諸障碍 於諸法中 任力所能 漸得入道      妙法蓮華経「薬草諭品第五」より

この諸々の衆生はこの(仏の)法を聞き已(おわ)れり。(故に)現世を安穏にして後に善処に生まる。(故如何となれば)(仏)道を(修めて)(そこに)(安)楽を受けたればなり。(この故に=楽しむ故に)亦(仏の)法を聞くことを得べし。既に(仏の)法を聞き已(おわ)れば、諸々の障碍を離る。諸々の法の中に於いて、力の能くする所に任せて、漸くに(仏の)道に入ることを得べし。    (これはいい加減さぶろうのいい加減読み取りです。みなさんはみなさんで読んでみてください)

いまここでわたしはブッダの説かれた教えを聞き終わったのである。そこでこの現在の世を安穏に過ごすことができるようになったし、後の生まれてもそこでも同じように善い境涯を送り得ると信じられるようになった。何故か。わたしはブッダの教えの道を歩いているのである。この楽しみを得ているのである。次も次もその次もブッダの説法を聞くであろう。ブッダの説くところを聞いているうちに、こころの迷いや執着から離れて行き、自分の進歩の度合いに応じて、教えを受け入れ実践をし、やがては仏道悟入に到達して行くことができるであろう。

ここはブッダが説かれているところであるから、「あなたがたは」として読むべきところであるが、さぶろうはここを敢えて「わたしは」として読んでみた。わたしの受け取りとしたかったからである。

経典の中の「現世安穏」ということはどういうことであろうか。現世を安穏にしている、安らかにしている、穏やかにしている、恐がらないでいる、落ち着いていられるということはどういうことであろうか。これは「いま現在において仏陀の教えを聞いていること」そのことのように思われる。そうでなければ聞けないからである。受け取れないからである。「後生善処」はどういうことか。仏教は永遠を説いている。命はここで紐のようにぷつりと切れてはいないのである。われわれの命はすべからく「後にも生まれても善く処(い)る」のである。

仏陀の教えはこうしてドキドキハラハラのし通しだ。ドキドキすることを教えておられる。ハラハラすることを説いておられる。

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楽しむことが出来るということは分かっている

2016年04月22日 22時37分35秒 | Weblog

明日は何をしよう。何をして楽しもう。今日を楽しんだ。畑の草取りをして。トマト苗を植え付けて。明日は何をしよう。何をして楽しもう。何をしてもいい。楽しむことが出来るということは分かっている。やはり草取りをすることになるだろう。今日は西の畑だったから、明日は北の畑に回ろう。ここに芽を出したズッキーニの苗を受け付けよう。春の光のさんさんとあふれるところにいて、その春の光をさんさんと浴びているだけでも楽しい。

 

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二つ目の災難を逃れる妙法

2016年04月22日 22時11分24秒 | Weblog

逃れられないものがあるけれども、逃れたい。逃れたい一心になる。これもどうしようもない。このこころからも逃れられない。すると二重苦に出遭うことになる。一つの苦難でも苦しく辛いのに、その上にもう人つの苦難が追いかけて来るのである。

ブッダの説法の中には概略こうある。「一つの矢を受けた後にさらにもう一つの矢を受けないようにしなければならない。人は誰もが苦しみの矢を受ける。最初の矢は外からの矢で逃れることは出来ないが、二の矢を逃れることは出来る。二の矢は自分が自分に射かけてしまう矢だからである」

「災難に出遭う時節には災難に遭うが宜しく候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」の良寛禅師の句はこのあたりの消息を述べたものか。最初の災難で終わりにすべきだと言っているのかもしれない。次の追い打ちの矢を受けないということなのかもしれない。

でもこれはさぶろうには出来ない。二の矢三の矢を受けて受けて苦しみ悲しみを引き摺ってしまう。たった一つの苦しみ悲しみを十にも二十にも倍加してあれこれいつまでたっても悩んでいる。

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逃れられないものがある

2016年04月22日 21時35分16秒 | Weblog

うちつけに死なば死なずてながらへてかかる憂き目を見るがわびしさ    良寛禅師

文政11年11月12日に大地震が起こった。新潟国上山の五合庵も大揺れに揺れたが九死に一生を得た良様が心配する知人友人に無事の便りをした。山を下りた禅師はここかしこで地震の惨状を目の当たりにされた。これはそのときの歌。「うちつけに」は「突然に」。「死なば」の後には「よからんものを」が省略されているようだ。地震の時に死んでしまっていたらよかったものを、死なずに命永らえたがために、災害の窮状を見ることになってしまった。とても悲しい。

「災難に遭う時節には災難に遭うが宜しく候。これはこれ災難を逃るる妙法にて候」という述懐もものしておられる。災難は逃れられない。人の死も逃れられないことである。だったら逃れないでいるしかない。冷たいようだが、畢竟したらそんなふうに腹を決めているしかないのかもしれない。災難に遭って亡くなった人もそうだろうが、生きながらえて憂き目を見る人もいやさらに辛いのである。この述懐の真意は、さぶろうの浅智慧では底にまでは届いて行かない。

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ASAKAWAさんのブログに矢車草が

2016年04月22日 10時25分38秒 | Weblog

ASAKAWAさんのブログに矢車草が咲いていました。写真を見て懐かしくなりました。この頃見かけることが少なくなりました。我が家の庭にも咲いて素朴な慰めを与えてくれていましたが、種蒔きを怠っている間に消滅をしたようです。ほっそりして華奢な装いでした。やはり青紫の色が可憐で慎ましくてその細身に似合っていたように思います。父の母、つまりわたしのお婆ちゃんが好きな花でよく庭先で摘んで来ては仏壇に供えていたようです。わたしはこのお婆ちゃんに可愛がられて育ちました。「いち」という名でした。娘5人とわたしの父が産まれその後にまた娘が産まれたので全部で7人の子だくさんでした。といってもその頃ではもっとたくさんの兄弟姉妹がいたところもあるようですが。父の兄に当たる人が小さい頃になくなっています。お風呂に入るのもこのお婆ちゃんといっしょ、布団に寝るのもいっしょ、ご飯を食べるときも膝の上というふうでしたので、父も母もわたしが悪いことをしても叱れなかったようです。お婆ちゃんが「いいじゃないか、この子がしたのなら。わたしに免じて許してやっとくれよ」と庇ってくれるのです。お寺で説法があって帰ってくると「つくら=胸のこと」の中から新聞紙で包んだお菓子を出してくれます。他の兄弟に見付からないようにして食べろというのですが、姉と弟に悪くて気が退けていました。小学校の授業参観もこのお婆ちゃん、通知表を取りに来るのもお婆ちゃんでした。「お前のところにはお母さんがいないのか」と友達に言われて困りました。矢車草は学校の行き帰りにもよく咲いていました。細身で華奢だったけど案外逞しい野草のようなところがある花だったと覚えています。

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不断草(唐萵苣・トウチシャ)がおいしい

2016年04月22日 08時54分37秒 | Weblog

不断草がおいしい。こんなにおいしかったのか。昨夜の夕食にはお浸しが出た。見た目よりもうんと柔らかだった。1椀ぺろりと平らげた。我が家のプランターで育てていたものである。これまで見向きもされなかった。そんなに好きじゃないらしい。で、なんども催促をしていてやっと不断草料理が実現した。今朝は味噌汁の菜になっていた。細かく刻んだものが。不断というから年中絶えないで栽培できるようだ。よく太る。すぐに成長する。畑にあって長く長く保(も)つ。虫が付きにくい。病気にならない。便利な都合のいい野菜だ。アカザ科の越年草。南ヨーロッパが原産地。別名トウジサとも。四季いつでも食用に出来る。葉は長い卵の形をしている。恭菜とも書く。栄養があるかどうかは知らない。

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僕はいきなりリッチマン

2016年04月22日 05時50分06秒 | Weblog

詩を書く度に僕は詩人になる。よそ行きの詩人ではなく、内向きの詩人というだけだけど。詩は装いだ。ひらりとした一枚の羽織をこころに纏う。すると全世界がかがやいてくる。だから詩人になるというのは魔法使いになると言うことだ。かがやいた全世界の中に僕が立っていられるこの神々しさ。こいつをお椀に山盛りによそって食べる。すると僕はその途端に貧しい男ではなくなって、いきなりリッチマンになっている。

 

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お腹がぐう

2016年04月22日 05時43分37秒 | Weblog

まだ6時前だが、もう明け初めている。障子戸が明るい。昼間の長い夏時間が近づいている。雨音はしていない。おやおやお腹がぐうと鳴った。一度きりであとは控えている。僕は老人。4時過ぎから目が覚めていたのだから。

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詩「宇宙の終わりまでずっと」

2016年04月22日 05時36分00秒 | Weblog

「宇宙の終わりまでずっと」

おいしい/感動はおいしい/僕は僕の口を拭う/手の平でごしごし拭う/涎が糸を引いてくる/おいしい/僕が初めから僕であったというそれだけのことなのだが/それが今朝は感動の食事になっている/僕が初めから僕であったということは/僕は終わりまで僕であり続けるということなのだ/宇宙の終わりまでずっと/

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