失礼だよねえ。会いたい人がいない、だなんて言うんだもんね、さぶろうは。拒否をしているふうに聞こえてしまうよね。大上段の物言いをするのはよくないよ。だよね。ご恩になった人が数多くいるのに、そのご恩も忘れ果てている。それから生きている人でなくても会いたい人はいるはずだ。父母や祖父祖母やご先祖さまや親戚一統様、この頃亡くなった弟には会いたくないのか。会いたい女の人はいないって言うつもりだったんだ。若くはないからもう好きな人はいないってことを言っていたんだけど、考えてみると薄情だよね。ということは嫌いな人ばかりということになってしまう。71年も生きて来てそれはないよね。そんなに冷淡でいることが、長く人間をやってきた者の、果ての姿だとは悲しい。ますます人間を愛すべし、異性を愛すべし。神仏を愛すべし。だよね。
「夕食ですよ、もう仕事を終わってください」と言われるまで外にいた。日が長くなった。一日を終わる前にあれもしておきたい、これもしておきたい。夕暮れ時間が充実している。「仕事」とは照れくさい。世の人のするような仕事らしいことはちっともしていない。休み休みに小径の草取り、秋冬野菜の後片付け、小葱の収穫、隠元豆の種蒔き、ユリの防虫剤散布、施肥、鶏頭の苗の鉢植え移植などなどをする。どれも児戯である。なんにもならない。誰かの役に立つというものでもない。何の役にも立たない。でもこれをしていると夢中になって時を忘れている。この高齢になってからこんな児戯ができるとは思っていなかった。嬉しい。こののんべんだらりの一人遊びが楽しい。一日が終わった。夕食を済ませた。有り難い。人には無駄骨に見えようが、兎にも角にもこうして一日を生きることが出来たことが有り難い。
闇が来て夜になった。椅子に座って長々とベートーベンの交響曲全集を聞いている。いい気持ちだ。音楽を聞く耳がさぶろうは少しも発達していないのに、慰められている。
どっかへちょいと出てみたい。気晴らしだ。お天気は冴えない。どんよりしたままだ。少し寒い。何かを是非ともしなくちゃならないということもない。した方がいいと言うことは山ほど有るが、これは強制力がないから延期する。誰かに会いたいと言うこともない。何時でも何処でもぶらぶらできる一人が断然いい。お喋りも嫌いだ。しばらく寡黙な時間の背中におんぶされて、揺すってもらって子守り(爺守か)をしてもらうしかない。家内は趣味の会に出掛けて行った。
庭のあちこちにエビネ蘭が咲き出した。高価なのは持っていない。これをもう一度丹念に見て回るとするか。城原川の川土手には毎年鬼百合の大群落が花を咲かす。今はもう土から芽を出して来て10cmほどにも伸びて来たころだろう。これを見て回るのもよさそうだ。見て回っても市長さんから褒美が出るわけでもない。そんな褒美も要らない。ともかくさぶろうのすることなすことどれもこれも、何にもならぬことばかりだ。桜の木の下に駐車しているものだから、愛車が桜まみれだ。掃除も一手だ。
ぬばたまの夜はすがらに屎(くそ)まり明かしあからひく昼は厠(かわや)に走りあへなくに 良寛禅師
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良様はお腹を壊しておいでだ。下痢が続いている。夜は夜じゅう厠に伝い這いして屎をまる。朝が来るまでだ。よほど酷かったのだろう。それでもう疲れてしまわれたようだ。やっと昼。昼間は疲れ果てて厠までもう急いで行くことも出来ぬ。心細い弱音を吐いておられる。禅師の最晩年の作である。お腹が弱かったようだ。体も痩せてほっそり。ひとりは辛かっただろう。弟の由之が見舞ってきた。
いつまでそうやって遊び呆けているのか、さぶろう。へえ。死ぬが死ぬまでそうしていていいとお許しが出ているものだから。それでついつい。遊びの手を止めないでいます。この世は働くところだという主張もあるけれども、この世を遊んで過ごすという主義もある。だね。どちらにも偏せず半分半分くらいがちょうどいいのかもしれないけど、さぶろうはすっかり遊び慣れしてしまって、だらしないけどもう真面目には働けない。
今はベートーベンのピアノソナタ21番ハ長調「ヴァルトシュタイン」第1楽章を聞いています。とろとろしているばかり。骨を抜かれています。でももう一日の半分をこうしていますから、そろそろ外に出て草取りを開始しようと思っています。ゆっくりだらだら。(ここ佐賀弁では「ゆっつらーと」)まだ茄子、胡瓜、トマト、ズッキーニ、南瓜、胡椒、ピーマンなどの夏野菜を植え始めてもいません。
あ、そうだ。もうすぐお昼じゃないか。だったら昼ご飯が先だ。パンが買って来てある。これにしよう。珈琲を飲みながらゆっつらーと。
さぶろうはお坊さんではない。お坊さんみたいなことばっかり書いているが。だから専門家ではない。仏教を自分なりに咀嚼しているだけだから、きっと間違いだらけの理解だろうと思う。読んで下さっている方もきっとそれぞれにご自分で仏陀の教えを聞かれて理解を得ておられるはずである。迷いに迷うさぶろうは、仏陀の教えから励まし慰めを授けられている、そればかりである。
朝の味噌汁の具は高菜だった。小さく切ってあった。大地の春の香りがした。高菜は高菜漬け(一夜漬けも含む)にしてしか食べられないとばかり思い込んでいたので新鮮だった。硬くもなくおいしかった。イケルと思った。こういう食べ方があったんだ。まだ畑にどっさり育っている。味噌汁に遣う分だけではとても片付かない。
「仏教」は(先に仏陀になったその)仏陀が(後に続いてくる未来仏陀に)説かれた教え」という意味合いである。「仏陀」とは「完成者」の謂である。人は誰もが完成に向かって歩いている。とぼとぼとだが、道は一本道だ。大きな、真っ直ぐな道だ。なんと教えておられるか。「あなたもやがて仏陀になります」「今は仏陀に成る途中にいます」「あなたは間違いなく完成に向かって歩いています」「仏陀の教えを信じて堂々とこの道を進みなさい」そういうことを教えておられるとさぶろうは理解している。仏教の一大特徴は仏陀一人が仏陀ではないというところだ。仏教は「(修行の末の未来に)仏に成る教え」である。そして「今を未来仏陀として歩いている」という教えでもある。こう教えられたら胸を張りたくなるではないか。
宇宙には、従って、これまでに仏陀に成られた仏陀たちがガンジス川の砂の数ほどもおられるのである。そういう宇宙にさぶろうがいるのである。この宇宙は仏陀の仏界宇宙である。宇宙は限りなく膨張を続けている。成長を続けている。仏陀たちは留まることを知らない。進化を繰り返している。どんな摩訶不思議な世界が待っているか想像も付かないが、これはこの先楽しみにしていていいことなのだ。
今日は4月8日。お釈迦様の誕生日とされている。お生まれになると彼は片手で天を指し片手で地を指して「天上天下唯我独尊」を宣言された。「この地上に生まれた我らは尊い仏陀なり」という宣言だ。今日はもう一度この「絶対人間尊厳」の教えを噛みしめよう。我等は(完成者仏陀の教えを信奉しながら)完成者に至る大いなる道を進んでいるのだ。
大いなる道といふもの世にありと思ふこころはいまだも消えず 下村湖人
おはようございます。雨は上がっています。あれほど吹きまくった風も、ここへ来てぴたりと止んでいます。気温は? やや冷え冷えしています。軒端に雀が家族でやって来て嬉しそうに飛び跳ねて遊んでいます。庭には皐月が咲き出しました。
昨夜は夕食に新筍といっしょに石蕗(つわぶき)が料理してありました。味が蕗と似ているのですが、それでもちょっと違っていました。やはり春の香りが特徴です。筍も石蕗も今年の初物でした。おいしくいただきました。
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良様には「病む時節には病むが宜しく候。死ぬ時節には死ぬが宜しく候。これはこれ難を逃るる妙法にて候」(正確ではない)といった内容のお手紙があります。ふっふっとこの句が思い起こされます。
病む時には病むが一番、死ぬ時には死ぬが一番。抵抗を試みないのが一番。顔をしかめないのが一番。一番いい解決の時期が来ているのだから。これで超えがたい難所を越えさせていただく。顔をしかめていたってそうなるときにはそうなるのですから、なるほどできるだけ顔くらいは顰めっ面にしないでおいた方が楽なのかもしれない。
従うしかないものには、嫌々ながらではなくこれがよいことの出発になると腹を決めて、従う。あとは仏さまのみこころにまかせてしまう。「仏に誤りましまさず」ですからね。かずかずの難所を乗り切らせてくださるのは仏さま。お礼を申さねばならないところです。とは言いながら、教えていただきながら、これがなかなか難しいけど。
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さ、朝ご飯にします。山鳩がすぐそばの樫の木の藪に来て鳴いています。遊ぼうよ遊ぼうよの催促をしています。「成るものは成る。成らないものは成らない。己の力の限度を超えたもの、それは天にあずけておいて、今は春、訪れている春の日を楽しくして遊ぼうよ」彼は老子の弟子。彼一流の説法をしています。
そうでした、そうでした。「成らないものは成らないが、成るものは成る」のでした。そして成っているものがたくさんたくさんあるのです。成らないものに執着するよりも、成るものに安堵を集めていたらよかったのでした。