<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

表情というのは月にもある

2016年04月19日 20時17分38秒 | Weblog

昼月が出ていた。昼月は白い。白いが真っ白ということもない。模様が染み出ていて表情を具えている。これでほんわかする。落ち着く。表情というのは月にもあるのだ。それを探って探ってみた。何かを訴えているのなら訴えを聞いてやるべきだ。そんなことがさぶろうにできるのか。できそうもないけど、さぶろうを指名して来ているとすればどうだろう。強要しているのでもあるまい。さぶろうは勝手にこう思った。「よし、分かった」と。何が一体分かったのか。落ち着いていい。そういうことが分かったのである。昼月が東の空の一角に出ていた。夜ではなく昼だというのに、落ち着き払っていた。

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赤じゃがいもを掘り上げた

2016年04月19日 20時05分51秒 | Weblog

赤ジャガ芋を掘り上げた。種芋をそこに植え付けていたことすらも忘れていた。さぶろうが忘れていても、芋は隠れた地下で実をつけていた。お見事と言うよりない。ちょうどいい大きさだ。あふれてごろごろしていた。施肥をした覚えはない。太陽光線と雨の水分だけで太ったのか。それしかない。こちらがそうと意識していようといまいとお構いなしというところがいい。実にいい。こうでなくちゃ。こちらが意識した分しか発展がなかったとしたら大変なことだった。こちらが意思をしなければ万物が動き出さないということもなかった。それって有り難い話じゃないか。万物は動いている。動いている。それにときどきひょいと気づく。気づいて頭を垂れる。有り難くって。申し訳もなくって。赤ジャガ芋の皮膚は薄かった。薄かったが張り切っていた。それを見て嬉しくなった。何故だったかは分からない。

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仁比山神社の御輿お下り

2016年04月19日 13時18分22秒 | Weblog

11時、出演者が神社の前に勢揃いをしました。お祓いご祈祷があり、11時40分ほどからお下りが始まりました。仁比山神社上の宮から御輿が担がれて長い石段を下りてきます。白装束の人たちが古式に則って担いでいます。いかにも重たそうです。新芽を出した青い紅葉が御輿の邪魔をするので先へ先へと長い竹の棒で紅葉の枝を跳ね上げて行く人がいます。2匹の猿の像も担がれています。馬は2頭。いずれも白馬ではありませんでした。鎧を被った人が揺られています。その前後に長い行列です。長い下り坂を下りて南大門を抜け下の宮を過ぎて行きました。14時からは下の宮で御田舞が奉納されます。御輿は今夜はここにお泊まりになり、明日の11時、ここからお上りの行列が上の宮まで進みます。

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さいわい背丈が空まで届いている

2016年04月19日 08時16分04秒 | Weblog

あの人のことは忘れよう。忘れるに限る。なにもかもこうしよう。忘れよう。借金のことも。奇病の全身脱毛症のわが醜さも。方々で受けた数知れぬご恩のことも。義理も人情ももうそっちのけだ。放り出そう。束縛が大嫌い。束縛されるのもされるのも。命令するのもされるのもご免だ。自由がいい。荷物は軽くした方がいい。この通りのこの男、世間ではさぞかし頑固者の恩知らずと見做されていることだろう。いや、その評価づけすら忘れよう。夢のようにして空のようにして暮らしていよう。さいわい背丈が空まで届いている。

雲の行くところところの風涼し 空まで届く大男なり      李 白黄

 

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植物のすることは深い 深いどんぶりだ

2016年04月19日 08時08分00秒 | Weblog

どんぶりのような深さをした牡丹花。横から見ている。側面図では真四角に近い。赤紫の花片が重なり合った真四角。ふう。深い。植物のすることは深い。この深い意図を汲み取ることなどどうして出来ようか。それにしてもあっさりした深さだ。どうだ、おれさまを見たかというような強要がない。目の前に花どんぶりが二個ある。朝から眼が釘付けだ。

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リラ仄赤き朝

2016年04月19日 07時53分48秒 | Weblog

要するに気慰めである。たったのそれだけである。その日の自分の不安をやわらげる。心配を逸らしてやる。もうすぐ死ぬという実感の深まりをちょっとだけ浅くしてやる。理屈を付けてそれらしく反論をこころみてやる。それで自己弁護になる。そうだそうだと自分にもったいつけて言い聞かせてやる。少しまた少し気が緩む。慰む。ものを書くのは自慰行為だ。読書をしたっていいかもしれない。その役目はあるかもしれない。音楽を聞いていてもそうなるかもしれない。とても利他の作用にはならない。他者にここちよい作用を及ぼす。そういう奇特な実践にはならない。

死ぬ死ぬと言うなリラ咲きいでたれば今朝は言ふまい仄(ほの)赤き朝     李 白黄

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抗わないでもいいことが分かる

2016年04月19日 06時46分13秒 | Weblog

詩「抗わないでもいい」

 

抗(あらが)わないでもいいということが分かる/日没に抗ったことはない/日が落ちて沈んでしまうことを恐れないでもよかったのである/いのちが落ちて沈んでもそうしていいのである/抗わないでもいいのである/なるようになっていくので/どんな心配もしなくていいのである/

日は実際は落ちても沈んでもいなかったのである/わたしの立ち位置が/日陰に入っただけだったのである/いのちもそうだと思う/きっとそうだと思う/日陰に入るのは休息と安息のためにあるのなら/そうしていればよかったのである/

朝まで待つと東からまた明るい光が射して来る/それを百も承知でいながら/いのちのことになるとうろたえてしまう/うるたえたいのなら/うろたえてもいいかもしれない/そうしている間に/ちゃくちゃくと/いのちの朝が来ていることになるはずである/目覚めが来て/わたしは仏陀(「ブッダ」はサンスクリット語では「目が覚めた者」の謂)になっているはずである/

夕焼けが来て日が没するのに抗わないでもいい。夕焼けはそれをただ美しく見ていたら/それでよかったのである/

ああ、久しぶりで詩を書いた。詩になったかどうか、それは分からないけど。自分がそれで安心を得たらそれで詩の働きはあったというべきかもしれない。少しの安心であっても。

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大気があるところにしか夕焼けは起こらない

2016年04月19日 05時59分12秒 | Weblog

おはようございます。4月19日、火曜日の朝を迎えています。昨日、日没時に西の空が空いっぱい真っ赤になっていました。久しぶりの夕焼けでした。夕焼けの次の朝は晴れるといいます。その通りにすっきり晴れています。「夕焼け」は夏の季語です。もう夏に近いのでしょうか。

ちなみに大気のない月では四季の変化もなく美しい夕焼けも朝焼けも起こりません。地球ならではの光のスペクタル現象です。

美は光と大気の作用に大きく関わっています。美しい四季、美しい大気現象を見たいのなら、地球にいるべきです。生きている間、地球にいる間に美しいものをたくさんたっぷり見ておくべきです。

光がないところでは山も空も海も見えません。花が百花して咲き誇っていたとしても見えません。たとえそこにどんな美しい女性がいたって見ることはできません。ですから、光があるところでは美しいものを見て見て見ておくべきです。そうできるときにそうするようにと光が差し込んできています。

いまはそうできるときにいます。西の空が暮れて行ってしまうまで畑に立ち尽くして空を仰いでいました。夕焼け雲を見ていました。日が沈んでしまうともうこの光の現象はなくなってしまいました。昨日は茄子の苗6株とトマト苗3株を畑に植え付けました。よく働きました。

光は電磁波。波には波長があります。赤い色の光の波長は長くて約700nm(ナノメーター)あります。ナノメーターは100万分の1mmです。青い色の光は短くて約470nmです。どちらも大気中の物質(窒素、酸素、アルゴン、水蒸気、塩素、二酸化炭素、水蒸気、塵など)にぶつかって散乱する反射光です。大気のない宇宙空間では光が進んで来ても色はつきません。後でそんなことを検索して調べてみました。

大気のあるところにいたのです。美しいところに生きていたのです。それに気がつけ気がつけという催促のようなものでした、空が夕焼けしたのは。

 

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