<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

人は最終的に帰って行くところがある

2016年04月04日 10時50分56秒 | Weblog

老が身のあはれをたれに語らまし杖を忘れて帰る夕ぐれ    良寛禅師

人様の家を訪ねられたのであろう。夕暮れに国上山の五合庵に帰ってくる途中にふっと杖がないことに気がつかれた。山道である。上りは杖が欲しい。しかももう夕暮れ。道もしだいにかすんでくる。物忘れは老人にありがちなこと。またやっちゃったか、と禅師は苦笑いをされたであろう。老いの身の哀れは確実に深くなる。それを聞いてくれる人がいればいいものを。それを語り合ったとしてもそれで取り返しが付くことでもない。まだこのとき禅師は60才をほんの少し越えたところだった。竹森というところまで行かれたところだった。

人は最終的に帰って行くところがある。誰もが生まれたところへ帰って行く。杖を忘れても帰って行けるから心配は要らない。そこがいい。真如界から生まれて来て真如界へ帰って行く。その間に憂き世がある。憂き世は浮世でもある。浮世は浮かれて呆けて暮らすに限る。

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例によってぶつくさぶつくさ

2016年04月04日 10時31分20秒 | Weblog

一人で遊んでいるからね、どうってことないんだよね。寂しくて、野菫の咲いている草むらへ向かってぶつくさぶつくさ呟いていたって、聞いている人なんかはいないんだし。独り言は独り言。それで消える。無害だ。

「きみはきれいだね」「こんなところに一人でいるのはどうして?」「君もやっぱりひとりが好き?」「好きな人はいないのかい?」「ふううん」

もう、虫けらが出て来ている。草を抜こうとして鉢を動かしたら、そこへわっと。小さい小さい虫けらが跳ねて飛び出してきた。目にも見えぬ早業だった。そして飛び散って見えなくなってしまった。声を掛ける暇もなかった。あれは何という虫けらだったのだろう。「虫」の尻へ「けら」が付く。けらは螻蛄(おけら)のことだろうか。それとも蔑称だろうか。

もう蝮も出て来ているらしい。おっかないぞ。毒のない蛇だったら恐がることはないんだけど。青蛙は何度か既に見かけた。やっぱり声を掛けて遊んだ。

人と会話するのも悪くはないけど、うまくソリが合わない。調子を合わせようと努力すると疲れてしまう。ああ、やっぱり一人がいいと思って、そこですたこら帰って行ってしまう。こうやって失礼なことをしてしまう。礼儀正しくしているのは、この年だと骨が折れる。好きな人は空想の中だけで十分だ。そこまでで行き止まり。広がりのないつまらない人生を送っていることになるのかもしれないけど、努力はしたくない。

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我は発芽してきた透かし百合の守護者

2016年04月04日 10時15分58秒 | Weblog

うふふ。うふふ。うふふです。うふふを呟いています。庭に透かし百合が芽立ってきているのです。草取りをしていてミスをすることがあります。芽立ちを掻いてしまうことがあるのです。そうしないように入念に、注意しながら草取りをします。元気いっぱいの発芽を発見するたびにこの「うふふ」が出ます。顔が一瞬ほころびます。「こんにちは」を言います。「今年もまた会えたね」「美しい君が見られる日が待ち遠しいよ」などと言葉を掛けます。草を抜きながらぶつくさぶつくさ。この老人は少々変態です。ここへこの数年、蕗が侵入を図っています。人が蕗を摘みに来ます。踏みつけないで済むように棒を立てました。発芽の数が多すぎて棒が足りなくなりました。危ないのはこの発芽の時だけです。大きく成長してくれば踏みつけられることはありません。それまでは守護が必要です。施肥をしてやるときにも踏まないように注意が欠かせません。これらの透かし百合は色とりどりです。花が咲き出したら人様に数本ずつお分けしています。

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健康増進の高菜なのにもらい手がない

2016年04月04日 10時03分00秒 | Weblog

高菜がどっさりできました。でも、食べてくれる人が現れません。我が家で一夜漬けをするくらいですが、それは高が知れています。なにしろどっさり育っているのです。昨日やっともらって下さる人が見付かりました。でも、これも笊に載るくらいでした。なにしろどっさりなのです。畑にゆさゆさ揺れています。健康に育ってまるまると太っています。貫禄十分です。でも嫁(婿?)のもらい手がありません。もうすぐしたら薹が立ってしまいます。すると硬くなります。枯れて行きます。電話を掛けてもらい手を捜しているのですが、高菜を食べてみようという人、高菜漬けをしてみようという人が見付かりません。お店にうずたかく売ってあります。3把で100円ほどの安値です。高菜は春の匂いがします。食べた人は確実に元気になります。健康増進が出来ます。はい、食べたら即それが立証されます。昨日畑から抜いて来て洗っておいた分が笊の上にもあります。このままじゃ近日中には萎れてしまいます。

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四月四日 花曇り

2016年04月04日 09時43分21秒 | Weblog

おはようございます。さぶろうは元気でいます。あちらこちらに痛いところがありますが、まあ、年齢相応でしょう。日が傾いていることは否めません。元気でなくなったらここへ投稿することはもうできません。投稿数はめっきり減っていますが、今日の第一声を届けることができます。できるだけ、自分を鼓舞できるようなことをこころがけています。これで自分を奮い立たせています。読んで頂いてそれが共鳴板になって人様に元気震動が伝わってくれたら嬉しいのですが。

今日は曇っています。昨夜はずっと雨の音がしていました。ずいぶんひどく降っていたように聞こえました。雨は上がっています。風が少しあります。畑の菜の花が揺れているのをみると其れがはっきりします。昨日は朝から夕方までよく働きました。庭と畑の草取りに過ぎませんが。お陰で作業をしたところはきれいになりました。ビニール手袋をはめての作業です。指は汚れませんが、指を動かすことに変わりはありません。今朝は右手の指が痛んでいます。使い過ぎました。草を運んで捨てたところに堆(うずたか)く草の山ができています。これだけの作業量だったのだなと妙に感心します。

今日はまだ外に出る気になっていません。いつ雨が降り出してくるか分からないからです。まあ、今日は休憩日でしょう。仏教書を読んで過ごします。やはり法華経を読みたくなっています。庭野日敬さんの解説された法華経購読の本を長年読み慣れてきました。読めば読むほど嬉しさが増してきます。人間に生まれてしかも今生きていること、仏とともに生きていることが嬉しくなります。

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