<おでいげ>においでおいで

たのしくおしゃべり。そう、おしゃべりは楽しいよ。

雨の中をしばらく楽しいデート

2016年04月23日 16時05分27秒 | Weblog

デートをしてきた。美人とのデートと言いたいところだが、それに該当するような方はさぶろうの相手はしない。人間は概してしない。さぶろうの相手をしてくれるのは、だから人間ではない。人間ではないがさぶろうの方は、それを人間扱いして愛情を注ぐ。たっぷりと。なみなみと。「あなたが大好きだ大好きだ」となんどもハートに囁きながら。「あなたといっしょにいるのは楽しい」だなんてことも言ったのではないか。無機質無生物にだってハートはあるのだ。語りかけるとそこにハートが芽生えるのだ。これが耳を持つようにもなる。石にだってある。鉄にだってある。ロボットにだってある。さぶろうと本日デートをしたのは車輪を4つつけたオートモービルである。雨に濡れる筑後川の、広々とした川面沿いを走って来ました。往復3時間半ほどぶらりぶらり。もうすぐ海というところまで。4時に帰宅した。「あなたといっしょにいられた。ああ、楽しかった」「きみはどうだった?」などと声を掛けながらハートのドアを閉めた。

 

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もらった顔をして自分をしているしかない

2016年04月23日 12時42分28秒 | Weblog

しようがないんじゃないか。こんなんじゃ嫌だと拗ねてみても、文句を言ってみても。もらった顔をして自分をしているしかない。こんな顔は好かないとぐずったって、顔がお好みに変わるわけではない。身体もそうだ。こころもそうだ。病気の体質だってそうだ。くよくよする性分だってそうだ。生まれて死ぬまではこれを背負って仲良くしていくしかない。宥め賺してみる。

全身脱毛症の奇病がいっこうに改善しない。もてようと欲を出したってどうにもならない。幽霊が歩いているようなものだ。睫がない。眉毛がない。鼻髭顎髭がない。頭髪がない。蛸入道もいいところだ。でもどうすることもできない。これで我慢をして過ごすしかない。でもね、これくらいは、実はさぶろうにだって我慢は出来るのである。我慢ができないと言うほどのことではないのである。ここまでの小難で勘弁をしてもらったと考えたら、お礼の一つも言わなければならなくなるのである。無毛だって生きて行けないことはないのだ。

火星人に見えるけれども、これだって火星人がすべて悪いということでもない。こういうふうに開き直る。開き直る練習にはなるのだ。地球から火星に移住する時代がこないともかぎらない。そういうときには風体(ふうてい)がそっくりだという特典を生かして一番乗りができるかもしれないのだ。

そりゃ、叶うことなら美男子に生まれて来たかったよ。鼻も高くついて生まれて来たかったよ。イケメンだったらモデルにだって二枚目俳優にだってなれるかもしれない。しかし、性分が性分だ。蟹のように怖じ怖じしてて牢屋のように仄暗いし。華やかなことにはまるっきり向かないかも知れない。

これでよかったと思うしかないのじゃないか。いま与えられているもので十分だと諦観するしかないのじゃないか。そこから一歩進んで、これでもなお過分だ、分に過ぎていると思い直すことだってできるのじゃないか。渋々そう思ってみる。そらがだんだん板に付いてくる。蒲鉾になる。これで逃げ切る。ああ、ともかくもいい一生だったと締め括る。期待していた以上の人生だった、そこで感謝ができれば儲けものなのではあるまいか。

病む。あれこれを病む。病まざるをえないから病んでいるのだ。病むことで幾分かの進歩が約束されているのだ。死ぬ。死なざるを得ないから死ぬのだ。死ぬことで幾分かの向上が約束されているのだ。現在地点に立って嵐を追いやる。そうすることが長い目で見てどんなに貴重なことだったかがやがて分かる時が来る。

そうなのだ、人は現在にだけ生きているのではなかったのだ。すべての現在を引き受けながら、曲がりくねった小径を曲がりくねりながら進む。そうするうちに、トンネルの先のように光が差して明るくなっているのが見えるようになるのだ。悪条件が重なっていてもそれでもその現在を現在で引き受けているのには相応の重大な意味が隠されているのだ。

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山を高く登らず 麓をうろうろするばかり

2016年04月23日 12時30分48秒 | Weblog

早すぎる。もう雨だ。まだ何にもしていないのに。牛糞を買いに行ったところで降り出した。雨の中では牛糞を持ち運ぶのはできない。両手がふさがれば傘は差せない。それで、仕方がない、買わないで帰って来た。愛車自転車でのサイクリングも中止だ。できないものはしないでいい。できることをしよう。公民館図書館に借りていた本を返却してそれからまた新しく借り出してきた。これを読むことにする。経典朗読(読経)も、雨が降っていてもできることだ。老人とは気楽なものだ。できないことはしないでもいいのだから。こういうふうだからちっとも努力がない。努力がないから進歩が伴わない。山を高く登らず麓の辺りをうろうろ怠けてばかりだ。

 

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そう言っておきながら、会いたがる

2016年04月23日 09時54分04秒 | Weblog

おかしいよ。そう言っておきながら、会いたがる。精一杯強がりを言って人を撥ね付けていたはずなのに、会いたがる。襟元に木犀の香を忍ばせている人に会いたがる。といってもしつこいことはない。それと気づかれないうちに、ふっと命の香を嗅いでそれで擦り抜けてしまうのだが。さらさらしたあっさり目の、命の香を放つ人に会いたがる。一人でいるのが自由で気ままで至福だとあれだけ繰り返し言っておきながら、こうだ。ざまはない。

新緑が新緑の香を放つ頃になった。山へ入るともう初夏が匂ってくる。卯の花ウツギも白く赤く垂れる。存在感旺盛な椎の木山の、椎の花の匂いはちょっときつすぎるけれど。初夏の匂いを放つ人にも会いたい。美しい目をした人に会いたい。会ってどうするということもない。ただ摺れ違って行けばいい。美しい人の美しい目がこの世にあるということを確認したらそれでもういい。

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目がぎょろりとしている

2016年04月23日 09時42分10秒 | Weblog

480円で園芸店に酔芙蓉の苗が売ってあった。買いたかった。買おうか買うまいか迷って行ったり来たりした。お金が惜しくて買わずに帰って来てしまった。うどん屋に立ち寄って420円の掻き上げうどんになってしまった。前に我が家でも庭に大きく育てて咲かせていたが、虫に食い尽くされて枯れてしまった。消毒をしてあげればよかったものを。怠け者は怠けを優先させて暮らした。酔いざまがいい。ほんのり赤く色づいていくその色気がいい。夏になるとこれが咲く。これに惹かれてあちこち人様の庭先に彷徨って行く。盗人と間違われそうで困る。禿げ頭で睫も眉毛もなくてのっぺらぼうで、おまけに人相が悪いのだ。花を見る目がぎょろりとしている。

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義務ではないが、今日しておきたいこと

2016年04月23日 09時27分18秒 | Weblog

さぶろうが今日しておきたいこと。

1,咲き終わった鉢植えの牡丹を地植えにする。2,お礼の施肥をしてあげたいので、牛糞を買いに行く。3,雨が降り出す前に平莢隠元豆の種を蒔く。4,公民館図書館に本を返却に行く。5,雨にならなかったら、愛車自転車とデートをする。6,日ノ隈公園の藤の花を見る。7,お昼はあっさり目に出来上がっているカレーライスを軽めに食べる。福神漬けをそえて。8,法華経観世音菩薩品偈ほかの読経をする。声高らかに。9,健康瞑想をする。はやばや入眠してしまわないように。10,一日の最後にやったことを日記に書いておく。呆け防止策に。

さあて幾つ実行できるか。いつも一人だ。一人はいい。義務がない。できるだけでいい。できないことはしない。どれもいい加減でいい。ふうらりふらりして楽しむくらいがいい。

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そこに全体重を掛けるのはそろそろ止めにしよう

2016年04月23日 08時16分25秒 | Weblog

もうそんなもんはいい加減嫌になった。ここを離れようと思う。そんなもんばっかりにうつつを抜かすのは飽いたのだ。そうでないところに移住しよう。そろそろ白日夢から覚めよう。そこに全体重を掛けるのは止めにしよう。

暑苦しい。汗がじとじと出るばかりで一向に涼しくならない。人間と人間にもみくちゃにされているのだ。ずっとずっとこうなのだ。愛憎は懲りた。こりごりだ。物質と物質とが入れ替わり立ち替わりして攻め入ってくる。この応対にも飽いた。

どうでもいいことはどうでもいいのだ。好悪は所詮好悪だ。濁りが澄むことはない。愛執愛着は愛想が尽きた。もう確執したくなくなった。振り回されて振り回されて、それで一生だったでは埒が明かない。

動かないものはないか。「動かない自分」というものは存在できないか。不動ではいられないのか。波間を漂うのは月光だ。波間で月光がゆらゆら揺れている。揺れているのが己か。違う。これは己ではない。これは影に過ぎない。

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三界は唯心の所現だったのか

2016年04月23日 07時57分09秒 | Weblog

仏教は「三界は唯心の所現」と説いている。さぶろうの受け取りは怪しいから参考にならない。さぶろうは我田引水が特技で、こうであったらよかろうということをさもこうであるかの如くに言いふらす悪い癖がある。言いふらすと言っても己自身にだから言い含めて慰めにしているという方が正しいかも知れないが。

心が見ているものがこの世に現れている現象だというのだ。現象があるから見ているのではなくて、見る人のこころの中に現象が立ち現れてきているというのだ。だから、早い話が、心を健康にしたら現象が健康になるというのだ。というよりも健康も病気も空なのだ。心が見ているだけなのだ。見ていてもそれが実在しているわけではないのだ。つまりそれが好きでそれを現象させて見ているとしている。

「それが好きで」というのは言い過ぎかも知れない。「それを成長の糧にして」というふうに言うのが穏やかかも知れない。

花びらが散るように現象というのも散っていく。それでお終いになる。だから見ている現象、苦しんでいる現象、楽しんでいる現象も花片だというのだ。はらはらはらはら散っていく。咲かせて咲かせてはらはらはらはら散っていく。それを見ている。さもさもほんとうにそこに実在を得ているかのように己を錯覚させて。

われわれの舞台鑑賞ももうすぐ終わる。舞台には役者が役を演じている。おやおや誰だろうとよく見ると役者は己なのだ。それを見ているのが心だ。舞台の芝居を観てわれわれは涙を流す。かと思うと我が意を得たりになって、嬉しくなって飛び上がる。演じているのも己の影武者、それを見ているのも己の影武者である。では己は何処に居るか。それを探すのが今世のわが仕事である。

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終わりは始まりを宿していた

2016年04月23日 06時52分06秒 | Weblog

それでも、見なかったというのか、さぶろう。見ても見なかったというのか。まだ信じようとしないのか。死はさらによりよく次を生きるためだと言うことを、全世界がこうしてはっきりと目に見せているというのに。

菜の花がすっかり終わった。茎の先の先まで実をつけた。花は結実を見た。いかにもしっかりした青い実である。それが茎ごとにずらりと列んでいる。実はふくらんで身重になる。それぞれの茎が重たくて撓んでいるほどだ。

花が一生の到達点だったかもしれない。いや、花ではなくてその次の実だったかもしれない。ゴールはここだったかもしれない。ゴールで、では、最終地点なのか。そうではないのである。連続するのである。終わりは始まりに繋がるのである。

一粒の実だったものが発芽をして成長をした。そして蝶を美しく咲き誇った花に誘って雄蘂雌蘂がセックスを楽しんだらこうなったのだ。無数の新しい始まりに導かれたのだ。結実してゴールかと思っていたら、そうではなくて、次の新しい生命が用意されていたのだ。

もうこれでいいというので茎も株も根も枯れて一生をざっくり洗い流す。彼らはしかしみずからの死に執着をしないのだ。枯れて行くこと死んで行くことを無意味だとはしないのだ。終わりの莢の中に始まりが宿されているのをしかと見て確かめて、安堵して行くものには執着はないのだ。恐怖はないのだ。

終わりには始まりが宿されていることを、さぶろうよ、汝はまだ信じることができないのか。まだ恐怖するのか。まだ働き終わった死骸に執着を覚えるのか。常に結果は原因なのだ。新しい原因なのだ。そのように還流していくことが許されているのだ。

地上の万物はこうして常に新しく新しく導かれて導かれて行くのだ。切断がないのだ。滞ることはないのだ。ストップなんかしていないのだ。連続しているのだ、永遠に。春の朝、畑に1万個の生命体が見えている。菜の花の結実の姿である。

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