しようがないんじゃないか。こんなんじゃ嫌だと拗ねてみても、文句を言ってみても。もらった顔をして自分をしているしかない。こんな顔は好かないとぐずったって、顔がお好みに変わるわけではない。身体もそうだ。こころもそうだ。病気の体質だってそうだ。くよくよする性分だってそうだ。生まれて死ぬまではこれを背負って仲良くしていくしかない。宥め賺してみる。
全身脱毛症の奇病がいっこうに改善しない。もてようと欲を出したってどうにもならない。幽霊が歩いているようなものだ。睫がない。眉毛がない。鼻髭顎髭がない。頭髪がない。蛸入道もいいところだ。でもどうすることもできない。これで我慢をして過ごすしかない。でもね、これくらいは、実はさぶろうにだって我慢は出来るのである。我慢ができないと言うほどのことではないのである。ここまでの小難で勘弁をしてもらったと考えたら、お礼の一つも言わなければならなくなるのである。無毛だって生きて行けないことはないのだ。
火星人に見えるけれども、これだって火星人がすべて悪いということでもない。こういうふうに開き直る。開き直る練習にはなるのだ。地球から火星に移住する時代がこないともかぎらない。そういうときには風体(ふうてい)がそっくりだという特典を生かして一番乗りができるかもしれないのだ。
そりゃ、叶うことなら美男子に生まれて来たかったよ。鼻も高くついて生まれて来たかったよ。イケメンだったらモデルにだって二枚目俳優にだってなれるかもしれない。しかし、性分が性分だ。蟹のように怖じ怖じしてて牢屋のように仄暗いし。華やかなことにはまるっきり向かないかも知れない。
これでよかったと思うしかないのじゃないか。いま与えられているもので十分だと諦観するしかないのじゃないか。そこから一歩進んで、これでもなお過分だ、分に過ぎていると思い直すことだってできるのじゃないか。渋々そう思ってみる。そらがだんだん板に付いてくる。蒲鉾になる。これで逃げ切る。ああ、ともかくもいい一生だったと締め括る。期待していた以上の人生だった、そこで感謝ができれば儲けものなのではあるまいか。
病む。あれこれを病む。病まざるをえないから病んでいるのだ。病むことで幾分かの進歩が約束されているのだ。死ぬ。死なざるを得ないから死ぬのだ。死ぬことで幾分かの向上が約束されているのだ。現在地点に立って嵐を追いやる。そうすることが長い目で見てどんなに貴重なことだったかがやがて分かる時が来る。
そうなのだ、人は現在にだけ生きているのではなかったのだ。すべての現在を引き受けながら、曲がりくねった小径を曲がりくねりながら進む。そうするうちに、トンネルの先のように光が差して明るくなっているのが見えるようになるのだ。悪条件が重なっていてもそれでもその現在を現在で引き受けているのには相応の重大な意味が隠されているのだ。