上天気になったので、娘2人と一緒に、蕨、ダラの芽、蓬(よもぎ)を摘みに小高い山間地帯へ足を運んできました。途中見晴らしのきくところにシートを敷いてお弁当を広げました。ダラの芽摘みはもう時期が遅くなっているようでした。蓬は昨年乾燥蓬にした分がまだかなり残っているので少し摘みました。我が家では団子や餅を作るときにだけ使っていますが、そうでない一般の料理にも使えると新聞にありました。トライしてみたいと思います。蕨は明日の朝の味噌汁になるでしょう。山には此処其処にまだ山桜が咲いていました。それから何の鳥だか分からないがいろんな鳴き声が聞こえていました。空気が澄んでいて遠くまで見通せました。地を這う虫、空を飛ぶ小さな虫が出て煩わしくも感じましたが、全体、気分爽快でした。山を下りてそのまま京都に住む娘をJRの駅に送りました。春の日をたっぷりふるさとの山野に遊びました。これで新しい元気を湧かせることができたことでしょう。
不思議を生きているのだ。生きているのは己のようだが、はたしてそうなのかどうか。己が己の力で生きているわけがない。そういう能力はないはずだ。世界中をひっさげて歩いて行けるほどの重大人物でもない。全宇宙がこの人物に付き従って守り導いているが、それだけの価値を身につけている重要重大さがこの男にあるとはよも思えない。どこをどう推しても敲いてもそうは思えない。摩訶不思議が生きているのだ。そうとしか言いようがない。己が実在しているようには見えているが、そうではあるまい。己は非実在だろう。実在を装った非実在であろう。死ぬの生きるのと騒いでいるが、騒ぐまでもないのかも知れない。騒ぎすらも偽装かもしれない。平安のおいのちさまが生きておられるのだ。揺るがない真如さまが生きておられるのだ。宇宙の意思が己のベースキャンプの住所としてここでピクニックを張っておられるのだ。悠々自在を楽しんでおられるのだ。
無明もなく、亦無明の尽きることもなく、乃至、老死もなく、亦老死の尽きることもなく、苦、集、滅、道もなく、智もなく、亦得もなし。 「摩訶般若波羅蜜多心経」より
おはようございます。4月10日、日曜日の朝が来ています。夜は明けたのですが、空がはっきりしません。白濁しています。風はないようです。一列をなした大根の花穂もぴたりと制止しています。山鳩が藪椿の辺りに来て低音でぼふうぼほうと鳴いています。「おはよう、目を覚ましたかい」の挨拶に聞こえます。
この年になると朝が来るのは当然という感覚ではなくなっています。天地には常に朝は来るのですが、その通りにこの自分にも常に来るとは言えなくなっているからです。残り少なくなっていることは否めません。ですからもはやそれは大切な貴重な朝なのです。今日は訪れています。貴重なものです。大切にしなければなりません。
咲き終わったハクモクレンの下に紫蘭(しらん)が咲き出しました。増殖力が強くて勢力拡大をします。地下茎が頑丈です。アマドコロ(鳴子ユリ?)も負けてはいません。あっという間にそこらを占領します。エビネ蘭はそれに比べると控え目のようです。イシャイラズがこんもりとして濃い紫色の花を豊かにどっさり着けています。