19
わたしのはからいでは、仏をはからうことはできない。
わたしのはからいでは仏をはからうことはできない、それでもいいのか。仏のおはからいがあったので、それでいいのである。
20
わたしのはからうほどの仏の世界であれば、そこには解決はないのかもしれない。
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長々と駄弁を弄しました。すまないことでありました。流れが幾筋にも分かれてしまったかもしれません。
19
わたしのはからいでは、仏をはからうことはできない。
わたしのはからいでは仏をはからうことはできない、それでもいいのか。仏のおはからいがあったので、それでいいのである。
20
わたしのはからうほどの仏の世界であれば、そこには解決はないのかもしれない。
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長々と駄弁を弄しました。すまないことでありました。流れが幾筋にも分かれてしまったかもしれません。
17
阿弥陀仏の裁量を頼むよりなかったのである。
わたしの裁量ではなく、仏の裁量で成仏が出来るのである。
わたしのはからいで、それをはからわなくてよかったのである。
18
社会通念では悪人善人が分けられていても、宗教の世界にはその固定的区別すらなかったのである。あったら、拒否と拒絶があるだけである。
人間の眼に映るようなその程度の悪や善を構築しても、それでは仏の悟りは開けなかったのである。
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そんなこんなを考えた。気になっているところを並び立ててみた。読んで下さっている方には申し訳ないが、矛盾が残るだけで、わたしに結論はないのである。
16
善人尚もて往生をとぐ。いはんや悪人をや。・・・煩悩具足のわれらは、いずれの行にても生死をはなるることあるべからざるをあはれみたまひて、願を起こしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もとも成仏の正因なり。
「歎異抄」第3条より
わたしの為すいずれの思想、いずれの行にても生死を離れることはできなかったのである。
14
そして、仏が悪しと思うほどの悪いことはこの世には存在していない。仏の本願が成り立っているのだから。仏の衆生救済が誓われているのだから。すべてがそこに至る道筋にある。
喰った方も喰われた方もそこを経過して次へ進んで行く。それをプラスに切り替えて行く。転じて行く。仏教は「転」の思想哲学を持つ。次へ繋げて行く。するとそこからするりと一つまた抜け出せたのである。
15
空の思想も展開された。喰うことは悪いことではない。喰っても悪の実体はない、と。そもそもこの世に悪というものはないのだ、と。悪がなければ善もない。すっきり晴れているだけである。
12
仏教者たち、仏道を歩もうとする修行者たちはそこを大いに悩んだ。理論と実践が噛み合わないのである。善人の顔をして悪人の暮らしているのである。これでは顔が立たなかったのである。仏さまに合わせる顔ができなかったのである。これでは困る。困ったのである。矛盾に追い返されてしまうだけだ。
13
彼らは尚更、一切衆生悉有仏性を説かざるを得なくなった。もっと鮮明に。山川草木悉有仏性を説かざるを得なくなった。もっと強烈に。
すべてを清潔にしておけばよかったのである。
10
穢いもの、悪、穢いこと、悪事に触れてはいけない。でも、触れてしまう。ではどうすればいいか。
11
穢いことを穢くないことにしてしまえばいいのである。穢いものを穢くないものにしてしまえばいいのである。塗り潰してしまえばいいのである。改竄してしまえばいいのである。清らかなもの、清らかなことにしてしまえばいいのである。表だけにしてしまえばいいのである。理論というのはそういうところがある。実践という裏には、まわらないのである。
8
穢れを払うという考えがある。汚れ穢れは、鏡を拭き取るように拭き取ってしまえばまた清らかになってものを映すことが出来るのである。払いたまへ清めたまへ、である。
食べてあげれば成仏する、成仏に手を貸しただけなのだ、という変種の楽観論もでっち上げられてきた。
9
これで矛盾が一つ氷解するのである。こう考えれば、善人のままでいられるのである。都合のいいように考える、これは宗教界であろうと変わりはないのかも知れない。
6
わたしは善人ですと言えるか。悪人ではないと言えるか。誠の道、正義の道を歩いていますと言えるか。わたしは仏を敬っていますと言えるか。
7
言えなくなるのである。前言を覆す必要に迫られているのである。善人になるのは、こういう思想は邪魔になるのである。死ぬ最後まで、悪人で終わってしまうのである。仏を喰らってしかもそれを恥じることさえしてこなかったのである。仏である山川海空を汚して汚して、しかもそれを恥じて、文化文明、産業工業、経済発展を止めることはできなかったのである。
3
では、そういうものをわたしたちは仏としているか。実際の生活において。仏として敬っているか。
そうはしていないのである。頭だけの思想で、実践は適わないままなのである。
牛や馬は家畜として働かせただけではないのか。豚は食糧として飼って殺して己の口に入れ、栄養としただけではないのか。
4
犬猫、虫は喰わないとしても、牛も豚も馬も喰う。魚も食う。鳥も食う。
では仏を喰っていることになるのではないか。
5
文明が発達してくると公害が発生する。山を濁し川を濁し海を濁し空を濁している。そうなると仏を濁していることになるのではないか。
1
牛や馬や豚や、猫や犬や、鳥や魚や虫にも、尊い仏性がある。仏と全く変わらぬ性質が備わっている。粗末に扱ってはならぬ。「一切衆生悉有仏性」である。
2
山や川や海や空や、木や草や石ころにも尊い仏性が有る。仏と変わらぬ性質が具わっている。
彼らもまた輪廻を辿っていずれ仏に成って行くであろう。「山川草木悉有仏性」の思想である。
この世を構成しているものはみな生々流転をして成仏を図って行く。どの段階にいるものでも、粗末に考えてはならぬ。粗末に扱ってはならぬ。