
回向が行なわれた阿弥陀堂の前で記念写真
このほど菩提寺安養寺と兄弟寺法泉寺のご住職並びに檀信徒の総勢25名で、比叡山延暦寺へ団体参拝(団参)してきた。
一行は先ず、安養寺と親交のある三千院へお参りをした。
親父の戒名・圓明院照山慈道居士については、その人の仕事などに関連して付けられる二文字のくだりが「慈道」となっており、「“慈しむ”とは有難い一文字を頂いたもの」と先達の賢信住職に改めて感謝の弁を述べた。すると住職は、さりげなく「長いこと自動車教習所に勤めておられたから」と仰ったが、何と洒落っ気のあることかと感心したもの。
大原の里を後にし、比叡山延暦寺に入山した。そもそも比叡山には延暦寺という寺はなく、比叡山全域(4㎞四方)を境内とする寺院。三塔即ち東塔(とうどう)・西塔(さいとう)・横川(よかわ)からなり、それぞれ中心となる仏堂があり、これを「中堂」というが東塔の根本中堂はその最大の仏堂である。本尊は伝教大師が自ら刻んだといわれている秘佛薬師如来である。
『延暦寺は、今から凡そ1200年前、伝教大師(最澄)が京の都の東北である鬼門を護り万民の豊楽を祈って根本中堂に不滅の法灯を掲げ、以来幾万の高徳名僧が三千の堂舎にこもって血のにじむ修行を重ねて来た霊山である』(延暦寺巡拝券より)
延暦寺では偶然にも岡山和気の安養寺(同じ天台宗)団参と一緒になる。前後して午後2時半から、阿弥陀堂において導師7人による、ねんごろなる回向を受けた。
続いて根本中堂へ案内され、伝教大師(最澄)の願いの一つ「一隅を照らす」の実践を通じて「忘己利他」(悪事は己れに向かへ、好事は他に与へ、己れを忘れて他を利するは、慈悲の極みなり)などについて法話があった。
堂内には「不滅の法灯」がゆらめき、思わず寒気すら覚えるような荘厳さと歴史の持つ威厳を前にして、心が洗われる思いがした。
「信長の焼き討ちにあった時に(不滅の法灯)は?」という当方の不躾な質問に対し「山形県の立石寺に分灯されていた為、絶えることなく今日まで灯されている」とのお答えであった。
明けて17日、早朝より土砂降りの雨の中、6時半から根本中堂において朝のお勤めを済ませた後下山した。
雨の嵐山からトロッコ電車に乗って亀岡に入る。先回りしたバスに乗り換え、昼食場所の湯の花温泉「松園荘保津亭」では、旬の京野菜や丹波牛?など海の幸、山の幸をふんだんに使った豪華な会席料理をいただき、温泉でゆったりと寛ぎ体と心を癒した。
湯の花温泉は3度目で、一等最初訪れたのはついこの間だったような気がするが、調べてみると24年も前(昭和59年9月)であった。竹之内バスガイド嬢が昭和61年生まれだと言うから、陰も形もなかった頃のこと。
トロッコ電車が亀岡駅に到着する直前に、車掌が大勢の台湾からの客に応えて台湾の歌と、何故だか「高校三年生」の歌声を披露した。これを聞いたガイド嬢が、この歌を知らないということから一頻話題になり、「舟木一夫→御三家→昭和38年頃ヒットした曲」とみんなが説明しても「私のお母さんも生まれてなかった」といい出す始末。エイジギャップと共に、時の月日の流れの早いことを思い知らされた。
今回初めて団参に参加してご住職と一層親しくなり、また同じ菩提寺の仲間と知り合うことができ、「道を同じうする仲間」を知る喜びに満ちた、実り多い修行の旅になった。そして親父をはじめ先祖への供養、また家族や友人の福徳を御護摩御修行し、大きな功徳のある旅でもあった。

三千院往生極楽院

往生極楽院の庭の童地蔵

観音堂


導師7人によるねんごろなる回向

阿弥陀堂で回向を受ける一行