てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

半世紀前の田植え事情

2009-07-05 10:32:00 | 農事

月明かり 早苗田(4日午後7時40分撮影)

 田植えが一段落つき、水管理と田草取りが日課である。それでも、さて昔の田植えはどうだったかと思うだけのゆとりが出てきたので、中学生時代(昭和36年頃)の日記帳を捲ってみた。

 当時我が家は6反(60アール)ほどの農家で、勿論まだ手植えであった。従って、人海戦術に頼るしかなく、学校は4日間の田植え休みがあって、子供たちは貴重な戦力として駆り出され一家総出である。なお人手が足りず、農協(JA)の斡旋によるヒヨウに頼っていた。

 田植えの時期にはヒヨウと呼ばれる隣県広島や香川、徳島あたりのお母さん達が数人、隊を組んで農家の手伝いに泊まりで通ってきた。日雇い労働者のことを、このあたりでは、確かそう呼んでいた。

 日記には約束の日にヒヨウが間に合わず、父親が農協と交渉して一日遅れでやっと3人段取りがついた様子が記されていた。明日の仕事段取りに夜遅くまで腐心している両親の心中を察し、子供心にも親父の焦る気持ちにしきりに同感と認めてある。

 2日間で粗方の田植えを無事終え、ヒヨウへの支払いが「1泊2日でひとり750円」とある。後日の小豆島臨海学校2泊3日の費用が米持参で560円、はがき5円、万年筆(プラチナオネスト’66)1,000円…などの金額から推察するのに、重労働の割には決して高額ではないと思う。

 イネ作りと並んで重労働と称されるイグサ。これこそ寒い冬に苗を植え、炎暑の夏に刈り取るという重労働である。かつては岡山県南が全国一の「イグサ王国」を誇ったが、1964年(昭和39年)をピークに、安い中国産の台頭や後継者不足などで減少の一途を辿り、今では倉敷市で3戸のみとなった。


※ヒヨウという呼称については子供の頃の聞き覚えなので、真偽を確かめるべくネットを調べたら、『ヒヨウとは、山地における木材搬出の作業にあたる者の名であります。木曽を中心として、三河、遠江、駿河等をもっぱらこの称をもって通っております。』という記述があった。(www.geocities.jp/kasaamiryou/topix4/minwa/hiyou.pdf)
コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする