てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

私だけの古墳

2006-08-27 10:44:04 | 暮らしと生活


 大エノキと並んで、かねてから気に掛かるものがもう一つある。ウオーキングコース途中の、龍の口山の南麓にある形のよい小高い丘陵がそれ。
 あまり根拠のない独り善がりの考えかも知れないが、私は密かに古墳(円墳)ではないかと確信している。山裾には人工的に築いたような大きな岩が認められる。

 下の写真では、龍の口山を背にして一番左の小山が「高島山」。そして煙たなびく右の小山が「唐人塚古墳」、さらに右端が「茶臼山」。写真からはずれて「賞田廃寺址」……「備前車塚古墳」と続く。↓



 高島山は、神武天皇を祭神とする高島神社があるだけ。
 唐人塚古墳は、横穴式石室に竜山石の刳抜型石棺の身のみが遺存。築造年代は6世紀末から7世紀前葉と推定される。


唐人塚古墳
  
       唐人塚古墳の内部

 この唐人塚から、すぐ東に「茶臼山」という小山があるが、ここにも石室の穴が認められる。
 そして、その東の山裾に「賞田廃寺址」が確認されている。賞田廃寺は、備前の国最古の寺院跡と言われており、当時吉備の国を支配していた豪族吉備上道氏(かみつみちし)の氏寺と見られている。
 またもう少し東方には、前方後方墳・備前車塚古墳がある。備前車塚古墳は、わが国最古の古墳グループながら発掘の歴史は浅く、その秘められていた姿を人々の眼前に現したのは昭和31年で、その後昭和42年~43年(1967年~1968年)にかけて、岡山大学、岡山理科大学の共同による発掘が行われ構造のほぼ全貌が明らかとなったばかり。

 このように龍の口山麓には、唐人塚をはじめ多くの後期古墳(6~7世紀頃)が築造されている。また、南側には、備前国府(600年~700年)や吉備大宰府が所在したと想定されており、高島地区は豊かな備前平野の中心として繁栄していたものと窺わせられる。

 近年の発掘技術を駆使すれば、古墳の発掘など容易なことと思われるが、未だもって「高島山から古墳発見!!」のニュースはない。
 ロマンを秘めた“高島山古墳”の話は、私の心の中に大切にしまっておこう。


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蘇れ大エノキ

2006-08-26 13:07:48 | 暮らしと生活
 わが地域に1本の見上げるほどの<大エノキ>がある。だが、往年の面影は薄い。1998年 (平成10年) 8月、岡山市祇園の旭川堤防上にあった大エノキの大枝が折れたことから、この木の伐採が喫緊の課題となった。

 遠くからも一目で分かり、かつては通行人の道しるべにもなっていたエノキは地域の誇りであり、昔から住民に親しまれていたもので、保存の声が高まった。
 この動きに呼応して、高島・旭竜エコミュージアム(高島公民館内)のメンバーは迅速に行動し、地域の関係者と協力しながらエノキの伐採を最小限度にして何とか生かしていくことを実現させた。

 1892年(明治25年)頃には、既に竹薮の中に目立って生育していたと言い伝えられている大エノキ。目通周囲4mの巨木で、岡山県内の有名巨樹としても第13位の太さだった。文化財などには指定されていないが、4本の枝を大きく広げた「地域のシンボル」として長い間地域を見守ってきた。

 伐採後は「よみがえれ大エノキの会」を地域住民と共に結成し、エノキの回復へ向けた処置、エノキの思い出を集めて冊子化、エノキをテーマとしたイベント開催などを中心的に行った。

 それから8年を経て、まだまだ時間はかかるが徐々に元のエノキに戻りつつある。この一連の取り組みによって、大きく伐採されて姿は変わったものの、エノキが生き残り、またエノキの思い出が地域の人々の間で蘇るという、土地の記憶を呼び覚ますことに結びついたようだ。


↑伐採前(8年前) ↓現在



太い根元にはサルノコシカケ   傍を祇園用水が流れる
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旭川土手と有森裕子さん

2006-08-25 15:03:39 | スポーツ
 今朝の山陽新聞で『岡山市北部の旭川土手を初夏に黄色に彩るオオキンケイギクが今年、生態系への悪影響が懸念される「特定外来生物」に指定された。必要に応じて駆除対象となる一方で、住民らに親しまれているだけに、河川を管理する国土交通省岡山河川事務所は「完全な駆除は難しい」と対応に頭を悩ませている。』と報じられ、複雑な気持ちに駆られた。

 オオキンケイギク(大金鶏菊)は、「太陽の花ヒマワリ(向日葵)に似て、黄金色にまぶしく映えて花冠を美しく飾り、その形が鶏のトサカに似ているから」というのが命名の理由だそうだが、初夏の旭川土手一面を黄色に埋め尽くす光景は圧巻だ。

 オオキンケイギクが群生する旭川土手一帯(三野公園前~新大原橋)は、オリンピックのメダリスト有森裕子さんの生まれ育った地域で、無名時代の彼女は、この土手を練習コースに何度となく走った道だと聞く。
 今年の岡山国体に先駆けて片側2車線に拡幅されたが、かつては半分の狭い道路で、よくぞ事故に遭わなかったもの。週1~2回、義父を訪ねる際に必ず通る道路だが、その度に独特の有森スタイルでひた走る裕子さんの姿を思い浮かべる。きっとオオキンケイギクの鮮やかな黄色が、彼女の目に飛び込んでいたはずだ。

 有森裕子さんとは縁もゆかりもないが、お父様は私の高校の大先輩であり、かみさんの高校の恩師でもある。96年のアトランタオリンピックで銅メダルを制し、8月9日の岡山へ凱旋の日、岡山プラザホテルで開催された祝賀パーティーへ出席した。
 あの爽やかな裕子スマイルを傍で拝顔して感激した。「この華奢な身体のどこに、あのパワー(連続メダリスト)があるのだろうか!」と正直思った。
 過酷なレースの途中、沿道の応援に笑顔で応えることについて「余裕は全然なかった。一生懸命の応援に自然とああなった。笑うとすごい力になる。喜びを力に…」と明るく語ってくれたのが印象的だった。
 同席のお父様とは二言、三言話しただけで、何をしゃべったか覚えていない。


旭川土手で黄色い花を咲かせる
オオキンケイギク=岡山市祇園
今年7月下旬 (山陽新聞より)

黄金色にまぶしく映えるオオキンケイギク
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地蔵まつり

2006-08-24 13:54:01 | 暮らしと生活
 お盆は「ご先祖を早く迎えてゆっくり送れ」と言われる。処暑を迎え厳しい夏の暑さも峠を越える頃(23日)中井町内では、地蔵まつりでお盆を締めくくる。

 本来地蔵まつりは地蔵盆と呼ばれ、お地蔵様をおまつりする仏事。お地蔵様は実質的には民間信仰の中にある神様だが、一応は仏教に所属する。
 地蔵菩薩は、お釈迦さまが入滅された後56億7千万年後に弥勒菩薩が現われるまでの無仏の時代に、六道(地獄・餓鬼・畜生・修羅・人間・天上)の衆生のすべてを救済すると言われている。またお地蔵様は子供の守り神でもある。

 様々なイベント、山車や造りもの、花火大会などで大賑わいの所もあるようだが、中井会町内の地蔵まつりはいたって簡素。町内行事として、初盆の方々を供養し、子供の健やかな成長を願って、脇田山安養寺の住職による法要を行う。
 地蔵盆の主役はあくまで子供達であり、子供会による「お接待」がある。毎年これを楽しみに大勢の参詣がある。子供達にとっては、夏休みの最後を楽しむコミュニケーションの場でもある。
 お地蔵様周辺には子供会有志の力作の雪洞(ぼんぼり)も掲げられ花を添えた。

   

   

   
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公会堂建設始まる

2006-08-23 12:35:48 | 暮らしと生活
 処暑ながら残暑なお厳しい折、わが中井町内会の公会堂建設計画は、新築に向けて大きく動き出した。築後1世紀を経て老朽化した公会堂の建替えは、10数年前からの懸案事項で、建設資金を積み立てて来た。
 一方で、岡山市の財政難に伴い建設補助金の交付決定が遅れていたが、やっと「補助金交付決定通知書」が届いたのを受けて、このほど地鎮祭が執り行われ、いよいよ待望の建設が始まった。
 しかし、まだ建設資金面でクリアしなければ点がある。借入金として277万円(今後町内会費から返済)が残る上に、なお一般募金として250万円(持ち家1軒につき1万円)が予定されている。

 この公会堂は私が子供の頃、既に相当古かった記憶がある。いつ頃建設されたものか知る住民も今はいない。上道郡高島村時代の教員官舎だったとの話もあり、恐らく100年以上の時を刻んでいると考えられる。
 昭和30年代、まだテレビが出現する前で娯楽も乏しく、公会堂で催される村芝居巡業に小さな胸を躍らせたものだ。いつも子ども達の遊び場となり馬とびをしたことなど、いろんな思い出が詰まっている。
 
 この機に隣地を買収したので、新公会堂は広くなって18年度中にはお目見えする。竣工の暁にはパソコン機器なども充実させる予定だ。
 電子町内会なかいは、『中井町民の、町民による、町民のための…』をコンセプトに運営している。一方的な町内情報の提供ではなく、双方向・全町民参加型で情報やイベントを共有することを狙いとしている。
 新公会堂をコミュニティーの拠点にして、町内の憩いの場となるよう切に願っている。

   
   総社宮宮司を斎主により執り行われた地鎮祭
   
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