
大エノキと並んで、かねてから気に掛かるものがもう一つある。ウオーキングコース途中の、龍の口山の南麓にある形のよい小高い丘陵がそれ。
あまり根拠のない独り善がりの考えかも知れないが、私は密かに古墳(円墳)ではないかと確信している。山裾には人工的に築いたような大きな岩が認められる。
下の写真では、龍の口山を背にして一番左の小山が「高島山」。そして煙たなびく右の小山が「唐人塚古墳」、さらに右端が「茶臼山」。写真からはずれて「賞田廃寺址」……「備前車塚古墳」と続く。↓

高島山は、神武天皇を祭神とする高島神社があるだけ。
唐人塚古墳は、横穴式石室に竜山石の刳抜型石棺の身のみが遺存。築造年代は6世紀末から7世紀前葉と推定される。

唐人塚古墳


唐人塚古墳の内部
この唐人塚から、すぐ東に「茶臼山」という小山があるが、ここにも石室の穴が認められる。
そして、その東の山裾に「賞田廃寺址」が確認されている。賞田廃寺は、備前の国最古の寺院跡と言われており、当時吉備の国を支配していた豪族吉備上道氏(かみつみちし)の氏寺と見られている。
またもう少し東方には、前方後方墳・備前車塚古墳がある。備前車塚古墳は、わが国最古の古墳グループながら発掘の歴史は浅く、その秘められていた姿を人々の眼前に現したのは昭和31年で、その後昭和42年~43年(1967年~1968年)にかけて、岡山大学、岡山理科大学の共同による発掘が行われ構造のほぼ全貌が明らかとなったばかり。
このように龍の口山麓には、唐人塚をはじめ多くの後期古墳(6~7世紀頃)が築造されている。また、南側には、備前国府(600年~700年)や吉備大宰府が所在したと想定されており、高島地区は豊かな備前平野の中心として繁栄していたものと窺わせられる。
近年の発掘技術を駆使すれば、古墳の発掘など容易なことと思われるが、未だもって「高島山から古墳発見!!」のニュースはない。
ロマンを秘めた“高島山古墳”の話は、私の心の中に大切にしまっておこう。