てすさび日誌

哀しき宮仕えを早期リタイアし、“サンデー毎日”のomorinが生活の一コマや雑感を認めた日誌です(2005/4/20~)

私の甲子園

2006-08-21 04:17:44 | スポーツ
 第88回全国高校野球選手権大会の決勝戦駒大苫小牧×早稲田実は、エースの投げあいで決着つかず、球史に残る名勝負となり再試合となった。夏の甲子園決勝の引き分け再試合は、69年の松山商(愛媛)―三沢(青森)以来37年ぶり2度目。
 21日の決勝再試合では接戦の末、早稲田実(西東京)が4―3で駒大苫小牧(南北海道)を下し、3度目の決勝進出にして、27度目の出場で悲願の初優勝を果たした。エース斎藤は、4連投でなお球威衰えず、147キロと言う圧巻の好投。
 両チームを共に優勝にしたい、そんな決勝にふさわしい好ゲームだった。

 高校野球で特に私の心に残る甲子園が二つある。
◆1965年(昭和40年)春、第37回大会◆
 わが母校が65年センバツで全国制覇した。
 平松政次投手(同級生)を擁する岡山東商は、対する市和歌山商を延長の末、劇的な大逆転で下して優勝した。平松は39イニング連続無失点記録を樹立し、現在も破られていない。
 アルプススタンドからの応援ではあったが、目を閉じるとスタンドを沸かしたあの歓声と興奮が蘇って来る。瀬戸内に初めて紫紺の優勝旗をもたらし、県民のフィーバーぶりは市内凱旋パレードで頂点に達したものだ。

 主将宮崎米三(同級生)はその後、芝工大→日石でも野球で活躍したが、先年病に倒れ早世した。後を追うように左翼中山良知(同級生)も亡くなった。
 今年4月には二塁手福井薫(同級生)が心不全で急逝した。地元百貨店を早期退社し、第二ステージを踏み出したばかりだった。
 殊勲選手中島賢一(同級生)は、スナック自営の傍ら同校野球部のコーチとして後進の指導にあたっていた。平成15年に脳梗塞に倒れたが、幸いに復帰し車椅子でスナックを続けている。店の壁にはセピアに変色した感激の数カットを掛けてある。

 当時の活躍選手の末路は、必ずしも栄光の道とは言えないが、同校野球部は、プロ球界に多くを輩出している。古くは大洋の名バッテリーとして名をはせた秋山登、土井淳の両氏。そして新しいところでは八木裕さんなど錚々たるメンバー。なかでも異色で最も有名な方は「まず~い!もう一杯!!」の八名信夫さんだ。
 また「ガラスの肩」と揶揄されながら、カミソリシュートで鳴らした往年の大洋の名投手・平松は今も野球解説者として活躍している。

◆1986年(昭和61年)夏、第68回大会◆
 この夏、8月8日から23日まで、私はマフラー修理のため入院した。折りしも高校野球が開幕中で全試合を観戦した。高校野球をつぶさに、しかも1回戦から通して観戦したのは生まれて初めて。
 
 決勝戦では天理が松山商業を3対2で下し、全国3874校の頂点に立った。この時、天理は初優勝で奈良県勢の全国制覇は初めてだった。坊ちゃんマスクの一見華奢な天理のエース本橋選手が肘の痛みに耐え、完投ぶりは見事だった。
 高校野球と共に夏が、そして私のマフラー補修が無事に終わった。
コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする