天誅組ゆかりの養楽寺。文久三年(1863)の8月16日から17日にかけて、天誅組の志士 吉村寅太郎ほか土佐脱藩藩士がこのお寺で仮眠休憩をしました。そしてその日のうちに五條代官所を襲撃しました。また河内勢のリーダー水郡善之祐(にごりぜんのすけ)同英太郎の墓があり、森元伝兵衛の記念碑があります。
また境内には「太神宮」灯籠があります。「おかげ」の銘はありませんが、これは明和八年(1771)のおかげ年に作られた伊勢灯籠であります。
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おかげ年と「おかげ灯籠」については以下のとおりです。
なお養楽寺の「太神宮」灯籠はおかげ年に作られていますが、「おかげ、御影、於かげ、お蔭」の刻銘が入っていませんので「おかげ灯籠」とは呼んでいません。
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江戸中期以降、特に後期になり伊勢参りは大流行します。「一生に一度は伊勢参り」がその当時の民衆の夢でありました。伊勢講(講=仲間)を組んで、お金を貯めて、あるいは講田(伊勢田)のお米を売って、選抜された2~3人が毎年お伊勢参りをする習わしができてきます。
近鉄特急でお正月に伊勢参りをする習慣やこの辺の小学校が修学旅行にお伊勢さんに行くその起源はここらへんにあるのではないかと私はにらんでいます。そのルーツは250年前のここにあるのですね。
こうゆう背景の中、富田林には25基の伊勢灯籠が造られました。
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通常の伊勢参りは年間20~30万人の参詣ですが、おかげ年にはその10倍以上の人がお伊勢さんに押し寄せたようです。
伊勢神宮は20年に一度式年遷宮があります。さらに60年に一度の「おかげ年」には、大挙群集をなして伊勢神宮に参拝(おかげ参り)したということです。
宝永二年(1705)のおかげ年には全国で330万人、明和八年(1771)には200万人、文政十三年(1830)には450万人はお伊勢をめざしたようです。
南河内では文政十三年のおかげ年に大流行し、行列をなし押し合いへし合いの大混雑の様子が記録に残っています。河南町の神山(こやま)村では村の全人口の半数近い人が参っています。
なかには奉公をほっぽりだして「ぬけ参り」したり、無賃で参るものもいたようです。
また合わせて村では「おかげおどり」も流行しました。
また「施行(せぎょう)」といって、道中の街道沿いの村では、握り飯やお餅、おかゆなど施しをしています。
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江戸後期はお伊勢参りが「一生に一度」の大イベントでしたのですね。
今で言うたら、一生に一度、ヨーロッパに行くとか、アルプスに登るとか、富士山にご来光を見に行くとか、そんな感じでしょうか?
なに、信心がはいっていない? でも「お伊勢参り」もその当時物見遊山的な息抜きで、あんまり信心が入っていないような感じですよ。信心を武器にすれば、お上(おかみ)も多めにみてくれた時代ですから。「東海道中膝栗毛」みたいな感じですよね。弥次さん・喜多さんもお伊勢さんを目指しました。
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富田林市域の大字図 旧村の場所はこちらを参照してください。
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幕末頃の富田林市域の領主と石高はこちらをごらんください。
富田林市には民衆信仰の石灯籠が34基あります。そのうち「太神宮灯籠(伊勢灯籠)」が25基(74%)と非常に多く、次に「金毘羅灯籠」が5基(15%)と続きます。そのほか、愛宕山灯籠や大峯山上常夜燈、秋葉大権現灯籠、弘法大師夜燈が各1基あります。
*この記事は「とんだばやし灯籠めぐり」(2018.3.7 「富田林百景+」の仲間たち)より引用したものです。
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