2021年8月15日 13:07 富田林市粟ケ池町 富田林市市民会館
平和を考える戦争展。富田林市で今年で37回も開催されている戦争展です。
市民の方が寄贈された遺品や戦時品が展示されています。
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うちの亡くなった母親が戦時中にいろんな物が配給になって、代用食を食べたことを話していました。
肉や魚はほとんと食べられず、すいとんやイモの混ぜご飯、サツマイモのつる、ずいき(里芋の茎)なども食べていたそうです。
農村部の富田林ですらそんな状況だったようです。
「楠公飯」というのがあったのを初めて知りました。腹持ちをよくする為だったようです。
すいとんは「戦中にこんなん食べてた。」と、小さいころ作ってくれたことがあります。
戦後まもなく、母がどうしても「きずし(しめ鯖)」が食べたくてヤミに買いに行ったら、働いていた1か月の給料と同じ値段だったと聞いたことがあります。
戦中の雑誌も戦時体制。
この年、昭和18年に出版社の企業整備によってほとんどの婦人誌が休刊しましたが、『主婦之友』など4誌だけが継続出版されたそうです。『週刊朝日』も継続出版された週刊誌であったようです。
戦時中や戦後まもなくは農村部の富田林でも大変な時期であったと母親から聞いています。
よく大阪市内など都心部から食料を求めて、「なにか食べれるものがないですか?」と尋ねに来られたそうです。
特に堺の空襲はすごかったようです。
昭和20年、「富田林から見て西の空が焼けるように真っ赤になっていた。」と母親が話してくれました。
堺は5回にわたる空襲で、2万戸近い家が焼かれ、1876人の方が犠牲になられました。
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8回も空襲に遭った大阪市内。
亡くなった父親から聞いたお話で、昭和20年父が19歳の時に学徒動員で加古川の連隊に派遣されるときに、国鉄大阪駅が集合場所であったのですが、その時運悪く大阪駅が爆弾攻撃され、将校の元に集まっていた学徒が将校の開口一番「解散!」の声に、チリジリになって逃げまわったそうです。
また加古川の連隊でも攻撃機による夜間攻撃があり、近くに爆弾が落ちて、多くの戦友が亡くなり、怪我をしたそうです。
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富田林駅がグラマンの艦載機の襲撃を受けたのは知りませんでした。
京橋駅や美章園駅、橋本駅はB29の爆弾や艦載機の攻撃を受けましたが、駅や列車は攻撃の対象になっていたようです。
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米軍機による本土空襲が始まるにつれて、大阪市内より学童が富田林町や磯長村のほとんどのお寺などに疎開してきました。
平野国民学校(現平野小学校 大阪市平野区)の492人 1944.9.18~1945.10.23
育和国民学校(現育和小学校 大阪市東住吉区)406人 1944.9.17~1945.10.23
今年はオリンピックの年でもあり、「オリンピックと戦争」の企画展示がありました。
「満蒙開拓青少年義勇軍」の展示。
15歳の農家の次男坊や三男坊(現在の中学生)が先生の勧誘によって、なかば強制的に銃をもたされ(形としては志願)、ソ連との国境近く、冬場零下40度にもなる荒涼たる未開の地 中国東北地方に開拓義勇軍として8.6万人が海を渡りました。戦後のソ連からの逃避行も含めて、繰り返されてはならないことと思います。
展示会場の様子。
「戦時下の富田林」の展示を中心に、いろいろなテーマでの展示がありました。
原爆の熱波で変形したガラス瓶
同じく固まってしまった土。
「満蒙青少年義勇軍」に志願された富田林在住の藤後 博巳さんのお話を聞きました。
会場満席の中、92歳になられても戦争の悲劇を繰り返してはならないとその想いをあつく語られるお姿に感激しました。
お話の中、皇国精神で15歳で義勇軍として極寒の荒涼たる未開の地 満州に渡り、ソ連との国境近くでその備えとして矢面に立たされた少年兵であったこと。そして戦後ソ連からの逃避行、凍死や病死、餓死、集団自決、捕虜としての恐怖のなか中国の現地の人に助けられたこと。年少であったのでシベリア抑留は免れたことなど、体験をもとにして多く語っていただきました。
侵略戦争としての加害者であり、また国(関東軍)に見捨てられた被害者というお言葉が印象的でした。
義勇軍8.6万人のうち死者が1.4万人がその苦難を物語っています。
戦後76年を迎え、戦争の恐怖や悲劇が薄らいできているかもしれません。その苦難を風化させないよう、また平和の願いを再確認するためにも、毎年終戦記念日に富田林市で37回も開催されている戦争展はほんとうに意義があると感じました。
市内の小学生が描いた平和への想い
写真撮影:2021年8月15日
2021年8月16日 ( HN:アブラコウモリH )
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