楽の音にあわせて

ブログは折々にアップしていきます。主にはSNS投稿の記事の掲載となります。

あなたを選んだのは、このわたし!

2013-05-14 12:26:00 | Sisterのねごと



当時の時勢とは相容れなかった互いに大切にし合おうという愛のメッセージ、イエスは身の安全が脅かされていると強く感じながら、弟子たちにその思いを熱く語り続けました。

これは今日の福音の箇所です。教会では毎日、その日読むように勧められている箇所を割り振っています。今日一日、何度も読み返したいテキストです。今日が過ぎたら読んではいけないというわけではありませんけれど。(入力ミスがないことを祈ってます!)

                  ◆

父がわたしを愛されたように、わたしもあなた方を愛してきた。わたしの愛に留まりなさい。わたしが父の掟を守りその愛に留まっているように、あなた方も、わたしの掟を守るなら、わたしの愛に留まっていることになる。

これらのことを話したのは、わたしの喜びがあなた方の内にあり、あなた方の喜びが満たされるためである。わたしがあなた方を愛したように、互いに愛し合いなさい。これがわたしの掟である。友のために自分の命を捨てること、これ以上に大きな愛はない。わたしの命じることを行うならば、あなた方はわたしの友である。もはや、わたしはあなた方を僕(しもべ)とは呼ばない。僕は主人が何をしているか知らないからである。わたしはあなた方を友と呼ぶ。父から聞いたことをすべてあなた方に知らせたからである。あなた方がわたしを選んだのではない、わたしがあなた方を選んだ。あなた方が出かけていって実を結び、その実が残るようにと、また、わたしの名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、わたしがあなた方を任命したのである。互いに愛し合いなさい。これがわたしの命令である。

ヨハネ福音書15章9-17節




(今日のFacebookへの投稿を修正して掲載しています。)


ありのままでいるという自由さ

2013-05-13 22:15:00 | Sisterのねごと
以前にも紹介しました片柳弘史神父のブログで、マザー・テレサのこのようなことばが紹介されています。

「神の前でありのままの自分を受け入れられるなら、どんな称賛もあなたを思い上らせることはできないし、どんな悪口もあなたを傷つけることができません。」

お世辞に乗せられやすい、あるいは悪口や中傷に激しやすいというのは、自分がどんな人間かをちゃんと見えていないからかも知れません。どんなことばをかけられても、自分が進むべき方向を見失わないでいられるのは、一重に神によりたのんでいることによってのみ可能ではないかと、よく思います。

歯が浮くようなおべんちゃらに踊らされたり、悪口で人を憎むようになるのは、外から聞こえてくるノイズのほうが、存在の中心であるべき「何もの」かより興味があるということの証拠かもです。






母の日

2013-05-12 09:21:00 | Sisterのねごと


母の日。そして教会の典礼暦では主の昇天の祝日。

この写真は「ピエタ」という名前で知られている、聖母子像です。無残な姿になったわが子を腕に抱く、悲しみの聖母。

母の日というと、普段なかなか口にできない感謝のことばを伝えたり、その気持ちを込めてプレゼントを渡したりというシーンを連想しがちです。

子が一番キツイ時に傍らにいてくれる、そんな母の姿を、人はいつもこころの奥で探し求めているように思います。それは父であり母でもある神の姿でもあり、究極の母親像でもあるのでしょう。

よい一日を!




恐れるな…って言われても

2013-05-09 08:34:00 | Sisterのねごと


「恐れるな」というイエスのことばが聖書の中にあります。

危険な行為を敢えて行ったり、暗い夜道を無防備で歩くなどという意味では、もちろんありません。

傷つくことを恐れないで? 程度があります。人間の心は、優しい人であればあるほど、疲れたり壊れることは十分あり得ます。そういう心理的な部分を無視することではありません。

不可能と思われる中では、神さまが手を差し伸べておられると感じられないことが往々にしてあり得ます。どんな状況の中でも掌(て)を合わせてイエスの名を呼ぶことが、恐れないということかも知れません。

イエスは十字架上という究極の絶望的な状況の中にあって、それでも「アッバ、父よ」と叫びました。だからイエスを十字架から降ろしてくれたわけではないのですが、それでも叫びました。叫びは極限的な祈りです。穏やかな顔で祈りのことばを唱えられない状況に陥った時にこそ、ほんとの祈りが出てくるのかも知れません。




聖母に捧げるひと月

2013-05-06 16:37:00 | Sisterのねごと


カトリック教会では、春たけなわである5月を聖母マリアに特別に捧げる月としています。聖母はすべての人の母ととして、西洋だけでなく、世界のあちこちで慕われています。この連休のあいだ、特に昨日のこどもの日を、家庭の温もりを感じることなく過ごした子どもたちを聖母に委ねます。

誰の目にもほぼ明らかなくらい不遇な日々を送っている子たちとは別に、一見恵まれているように見えて、実はこころの中にいつも満たされない寂しさがある、痛みがある、そんな子たちもたくさんいます。

いつかおとなになって、生まれてきてよかったねと言われて、こころからそう実感できるようなこれからの日々を過ごしていってほしいです。