徒然雑感 by おとぼけの父上

R中学のソフトテニスコーチ、エスパルスの応援、その他何でも、日々の雑感を記録していきます。

アクセス解析 

2010-07-10 19:29:36 | このブログについて
昨日の終了時点でのアクセス解析状況。

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こうなっている。
ブログを始めた後、
途中からこのアクセス解析を始めたけれど、
それでも、多分、本日、
閲覧は300,000 PV を超えるだろう。

ありがたいことだ。
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中体連番外編 第2弾

2010-07-10 19:25:16 | テニス
もう一人の同僚の娘さん。
小学校時代はタツタと同級生。2年生ながら試合に出場。
きっと、いい経験となっただろう。
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中体連番外編

2010-07-10 19:10:10 | テニス





わが社の同僚の娘さん。
T中のキャプテン。
そのプレーは素晴らしかった。
R中にいたら、団体戦県大会進出も夢ではなかっただろう。
団体戦と違い、
個人戦の生き生きとしたプレーぶりは素晴らしかった。
2年生のペアも、この大会で本当に成長していた。
県大会に行かせてあげたかった。
ベスト16決めの試合で、ファイナルとなり、
最後の最後まで勝敗の行方は解らなかった。
でも、あれだけの試合をしてくれたら、私的には満足である。
もちろん、勝たせたかっただろう。
私もそう思った。
でも、その気持ちは相手も同じ。
しょうがない。
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豚の目に涙

2010-07-10 17:32:56 | テニス
今日は中体連個人戦だった。
この後、詳しい話を書く予定だが、
まず一番初めに恥ずかしい話をひとつ。
これまで生きてきた50年強の日々の中、
記憶の無い小さい頃を除き、
人前で泣いた記憶はない。
親父が亡くなった時は、
集中処置室で、家族だけで泣いた記憶はある。
そのほか、映画館や、
居間で、映画等を見ながら泣いたこともある。
しかし、いずれも家族の前だ。
しかし、今日初めて、中学生の前で泣いてしまった。
不覚だった。
鬼の撹乱?(普段ごく丈夫な人が、病気にかかること。)
いや意味が違う。
だから豚の撹乱?
いやいや、
鬼の目に涙?(無慈悲な者にも稀に仏心が生じること)
ちょっと意味が違うか?
だから豚の目に涙?

なぜ泣いてしまったのか?

泣いてしまって言いたいことが言えなかった、
最後のミーティングでのコメントを、
ここに再現したい。

今日、
活躍できた人、出来なかった人。
いいプレーができた人、出来なかった人。
それぞれ色々な感想を持っているだろう。
出場選手全員が、みんな勝ちたいと必死になる大会。
これまで参加してきた大会と、
最後の中体連は全く違う大会と言ってもいいだろう。
優勝ペア以外は、必ず負けを味わう訳で、
どこかで悔しさを味わうこととなる。
だから、みんなある種の後悔を味わっただろう。
そんな中で、いいプレーができた選手は幸せである。

私のポリシーでもあるが、
スポーツとは勝ち負けだけで評価してはいけない。
強い相手と戦えば負けるし、
弱い相手と戦えば勝つ。
それだけで、勝ち負けが決まるのであれば、
試合をする意味はない。
強い相手にチャレンジして勝ったり、
例え負けても、苦しめたりすることで、
プレーヤー自身に
あるいは観客に、感動を与えるのである。
今日も上位の中で番狂わせが起きていた。
あるいは弱いと思われたペアが、
ファイナルまでどちらが勝つか全くわからない試合もあった。
そういう試合が感動を与えるのである。

そして、今日私が泣いてしまった理由。

あえて書くが、

1学年19人いれば、
上手い奴もいれば下手なやつもいる。
中心選手はどうしても上手い奴となる。
スポーツである限り、それは当たり前である。
例えば団体戦は、上手い奴だけが出て、
もちろん、学校を代表し、
いい試合をする義務を背負ってがんばっていく。
下手なやつはそれを後ろから応援するだけとなってしまう。
だから、私は出来る限り、いわゆる下手な選手が、
3年間楽しく部活ができるよう気を配ってきた。
じゃあ、何をしたのと言われると、困るのだが・・・

そんな中で、R中では、これまで、
公式戦に一度も出られなかった選手が何人かいた。
その一人である、S選手が、
今日、本当に素晴らしいテニスをしてくれた。
何となく、この文章を打ちながら、
涙ぐんでしまうのだが・・・・

もちろんR中でも順位をつければ下位の選手。
何とか1勝させてあげたいな、そう思っていた。
試合は劣勢の中進む。
前衛なので、相手のマッチポイントを迎えて、
何度もレシーブする場面を迎える。
それを何度もはねのける。
そしてそのゲームを挽回し、勝ち取る。
1-2で迎えたそのゲームもいいプレーが見られたが、
最後彼女の2回連続ダブルフォールトで負けが決まった。
しかし、まさしく、力を出し切り、力尽きた。
そういう表現がぴったりな試合であった。
もちろん、ペアのFも緊張から不調の中、
彼女のがんばりにこたえようと頑張っていた。
だれしも、不調の時はある。
それでも、投げやりにならず、
何とかしようと言う気持ちはプレーに表れていた。
そういう姿が見ているものに感動を与える。
それを思い出したら、涙が止まらなかった。
恥ずかしいことである。
コーチが感情に流されたら失格だ。

そのほかにも、いいプレーをしたH・Tペアがいる。
前々から、実力があるのに、発揮できなかったペア。
いつも初戦負け?
だから、厳しい場所に入れられてしまった。
でも、何本も素晴らしいボールを打ってくれた。
きっと、明日の団体戦では活躍してくれるだろう。

なにか、ポイントがずれてきてしまったが。

前から言っているように、
優勝できる選手のベスト8進出より、
1回戦負けの実力の選手が3回戦進出の方が価値があると何度も書いている。
今回のH・Sペアは、結果的には1回戦負けかもしれない。
しかし、私の中ではベストゲームだった。
こういう思い出を大切にして欲しい。
それが部活の良さだと思っている。

プロなら勝たなければ駄目だろう。
でも、部活は思い出が出来ればいいのではないだろうか?
それを再確認できた一日だった。
出来れば勝たせたかったが・・・・
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中体連個人戦

2010-07-10 06:49:05 | テニス

今から数時間後に、ほとんどの選手にとって3年生最後の試合。
負けたら最後引退の試合となる。
過去8年間?中体連で1勝も出来ずに敗退した選手も多い。
せめて1勝はさせたい。
そう願っても、
勝負である以上、
出場選手たちの半分は初戦敗退となる。
仕方のないことだが。
今年はどんな成績を上げてくれるか。
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【J特】懐かしの伊藤優津樹選手

2010-07-10 06:29:36 | サッカー(その他)
Jリーグ2010特命PR部員 おとぼけの父上

先日、うちのお店に伊藤優津樹選手が来店された。
懐かしの顔。
もとエスパルス。
高校は静岡北高出身。
北高は、我が家から歩いて数分。
現在タツタが所属している太陽FCは、
北高グラウンドで練習している。

伊藤選手のプロフィールは以下の通り。
現役時代
静岡県出身の地元選手として、Jリーグが開幕した1993年に清水エスパルスに入団。2年目から公式戦の出場機会を与えられ、貴重な左利きの選手として起用される事が多かった。

1998年、新たな出場機会を求めて旧JFLの川崎フロンターレに移籍。伊藤より1歳年下で、1年早く清水から川崎に移籍していた長橋康弘とのコンビで左サイドでのレギュラー獲得が期待されたが、自身がケガで悩まされ、同ポジションでは久野智昭が活躍した事もあり、翌1999年のJリーグディビジョン2(J2)にかけてほとんど試合に出られなかった。

2000年、伊藤はJリーグディビジョン1(J1)昇格を果たした川崎を離れ、J2のコンサドーレ札幌に期限付き移籍。ここでは岡田武史監督に左サイドのレギュラーとして起用され、サイド攻撃でマルシオ・エメルソン・パッソスのゴールをアシストした。結果、札幌はJ2優勝、エメルソンは得点王、そして伊藤は自己史上でのJリーグ最多試合出場という最良のシーズンとなった。2001年も期限付き移籍を延長し、J2に降格した川崎には戻らずに札幌で4年ぶりのトップリーグ挑戦となった。同年は伊藤にとって唯一のゴールも記録したが、再び負傷が増えて、湘南ベルマーレから移籍した和波智広にレギュラーを明け渡した。

2002年に川崎へ復帰。やはり左サイドやトップ下での起用となったが、慢性化したケガの影響は抜けず、さらに塩川岳人に加えて2003年から加入したアウグスト・ペドロ・デ・ソウザが左サイドのライバルとなって、伊藤の出場機会は増えなかった。そして、チームはJ2優勝と翌年からのJ1復帰を決めたが、自らは公式戦での出場が無かった2004年シーズンを最後に現役を退いた。

現役引退後
現役引退後は、長野県佐久平地域[1]でのサッカースクールやフットサル教室を行う株式会社シンカーズの設立に参加し、その取締役となり小学生の指導を開始。現在では佐久平地域の他、東京都板橋区でもサッカースクールを運営している。

1990年-1992年 静岡北高校
1993年-1997年 清水エスパルス
1998年-1999年 川崎フロンターレ
2000年-2001年 コンサドーレ札幌
2002年-2004年 川崎フロンターレ

普段着で見る伊藤選手は、相変わらず引き締まった体型ではあったが、
プロスポーツ選手には見えなかった。
エスパルスにはいいた時から応援していたが、
怪我に負けた選手と言う印象もある。
「無事これ名馬。」
Jリーグで生き残るのはそう簡単でない証拠か。
元気そうで少し嬉しかった。
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