全国の宗教法人数は18万2,935、内訳は神道系が46.8%、仏教系が42.5%、キリスト教系が2.2%、諸教が8.5%、また信者数の合計は約2億人、内訳は神道系49.6%、仏教系44.8%、キリスト教系0.8%、諸教4.8%となっています(文化庁 第141回宗教法人審議会より)。
宗教法人数18万2,935も驚きますが、無宗教国といわれる国の信者数が2億人とはあきれるばかりの数字です。読売新聞の調査によると宗教を信じる人は79年の34%から大きく減って05年には23%(Wikipedia)となっていますから約3000万人です。本来の意味での信仰は2つも3つもかけ持ちするものではないですから、この2億人という数は本来の信者という意味からかけ離れたものと思われます。
宗教と言っても教義すら持たないといわれる神道系、葬式仏教と揶揄される仏教系など、形骸化が十分に進んだ宗教と、信者を洗脳し人格の改造まで行う新興宗教まで様々です。宗教と言うひとつの言葉で括るのは不適切であり、死火山と火を噴いている活火山を同じ火山として扱うようなものです。
前者は宗教本来の機能の多くを失い、後者は信者から巧妙で強引な方法で資金を集めたり、信者をその家族から拉致同然に引き離したりと、しばしば問題を起こしています。「宗教団体、霊感商法による被害リンク集まとめ」は約50の宗教団体についての被害者サイドの数多くのリンクが載せられています。
両者の中間には本来の意味の、まともな宗教が存在するのでしょうが、宗教法人数18万2,935と信者数約2億人からはかけ離れた数であることが推定できます。
洗脳して財産を寄付させたり、身柄を拘束したりすることは通常の社会では許されることではありませんが、宗教となると許されます。オウム真理教は信者を強引に取り込み、信者の家族からの苦情に対して、警察はなかなか手が出せなかったと言われています。法の及ばない領域、治外法権のような領域が存在するわけです。
信教の自由は憲法で保証され、寄付は無税など宗教は税制面などでも優遇されています。それは数十年前の社会の要請を反映したものであったのでしょう。過去の社会では宗教が大きい役割を占める時代がありましたが、現在、その役割はずいぶん小さくなっていると考えられます。
宗教問題に手を出しにくいのはマスコミも警察と同じのようです。5月31日付朝日新聞には宗教に対する今までの報道姿勢について次のような記述があります。
『「宗教を全面に出さない。特定の宗教団体は取り上げない」のが編集方針。
信教の自由があり、教理を批判するつもりはなかった。あくまで社会との接点で起きている問題を書いた』・・・(まあ本当は不買運動や訴訟が恐いのでしょうけど)
宗教は警察やマスコミが簡単に手出しできない聖域です。オウム事件は別格としても、半ば強制的な「集金」、霊感商法、信者に対する性的な虐待など、事件として表面化するのは氷山の一角であると思われます。2004年に表面化した米国カトリック教会の性的虐待事件では過去52年間で神父4450人に疑いがあり、件数は約11000件に上ると報じられました。疑いは実に神父の4%に及んだそうです。この種の事件の発覚がいかに困難かを示しています。
宗教は妄想の産物ですが、一部の人とっては必要なものでしょう。ただ、形骸化したものから過激なものまでを等しく宗教として優遇するのは問題が多いと思います。信教の自由は認められなければなりませんが、宗教法人に対する優遇措置はもはや時代に合わなくなっているのではないでしょうか。
(リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」という本がひところ話題になりました。表題はこれを拝借したものですが、日本では神を使用しない宗教もあるので「宗教は妄想である」としました)
宗教法人数18万2,935も驚きますが、無宗教国といわれる国の信者数が2億人とはあきれるばかりの数字です。読売新聞の調査によると宗教を信じる人は79年の34%から大きく減って05年には23%(Wikipedia)となっていますから約3000万人です。本来の意味での信仰は2つも3つもかけ持ちするものではないですから、この2億人という数は本来の信者という意味からかけ離れたものと思われます。
宗教と言っても教義すら持たないといわれる神道系、葬式仏教と揶揄される仏教系など、形骸化が十分に進んだ宗教と、信者を洗脳し人格の改造まで行う新興宗教まで様々です。宗教と言うひとつの言葉で括るのは不適切であり、死火山と火を噴いている活火山を同じ火山として扱うようなものです。
前者は宗教本来の機能の多くを失い、後者は信者から巧妙で強引な方法で資金を集めたり、信者をその家族から拉致同然に引き離したりと、しばしば問題を起こしています。「宗教団体、霊感商法による被害リンク集まとめ」は約50の宗教団体についての被害者サイドの数多くのリンクが載せられています。
両者の中間には本来の意味の、まともな宗教が存在するのでしょうが、宗教法人数18万2,935と信者数約2億人からはかけ離れた数であることが推定できます。
洗脳して財産を寄付させたり、身柄を拘束したりすることは通常の社会では許されることではありませんが、宗教となると許されます。オウム真理教は信者を強引に取り込み、信者の家族からの苦情に対して、警察はなかなか手が出せなかったと言われています。法の及ばない領域、治外法権のような領域が存在するわけです。
信教の自由は憲法で保証され、寄付は無税など宗教は税制面などでも優遇されています。それは数十年前の社会の要請を反映したものであったのでしょう。過去の社会では宗教が大きい役割を占める時代がありましたが、現在、その役割はずいぶん小さくなっていると考えられます。
宗教問題に手を出しにくいのはマスコミも警察と同じのようです。5月31日付朝日新聞には宗教に対する今までの報道姿勢について次のような記述があります。
『「宗教を全面に出さない。特定の宗教団体は取り上げない」のが編集方針。
信教の自由があり、教理を批判するつもりはなかった。あくまで社会との接点で起きている問題を書いた』・・・(まあ本当は不買運動や訴訟が恐いのでしょうけど)
宗教は警察やマスコミが簡単に手出しできない聖域です。オウム事件は別格としても、半ば強制的な「集金」、霊感商法、信者に対する性的な虐待など、事件として表面化するのは氷山の一角であると思われます。2004年に表面化した米国カトリック教会の性的虐待事件では過去52年間で神父4450人に疑いがあり、件数は約11000件に上ると報じられました。疑いは実に神父の4%に及んだそうです。この種の事件の発覚がいかに困難かを示しています。
宗教は妄想の産物ですが、一部の人とっては必要なものでしょう。ただ、形骸化したものから過激なものまでを等しく宗教として優遇するのは問題が多いと思います。信教の自由は認められなければなりませんが、宗教法人に対する優遇措置はもはや時代に合わなくなっているのではないでしょうか。
(リチャード・ドーキンスの「神は妄想である」という本がひところ話題になりました。表題はこれを拝借したものですが、日本では神を使用しない宗教もあるので「宗教は妄想である」としました)